ジーコ、鹿島アントラーズを語る(前編)

 30年以上にわたり、鹿島アントラーズと日本サッカー界に深く関わってきたジーコ。その彼が、現在のチームとの関係、そして今季の鹿島アントラーズについて、率直な想いを語った。

 私は「Never」という言葉を決して使わない。人生では何が起こるかわからないからだ。何事も「絶対あり得ない」と言いきることはできないし、それで可能性を狭めてしまってもつまらない。もちろん、「No」と断ることもある。たとえば私のキャパを超えた仕事の話がきた時、もしくは私とは反対の考えを持った人たちからのオファー。そういう環境では落ち着いていい仕事をすることはできないからだ。逆に言えば、同じフィロソフィーを持つ人となら、喜んで一緒に働きたいと思う。だからこそ私は、こんなにも長くフラメンゴや鹿島アントラーズで仕事をしてきたのだ。

 私も時には判断を誤るし、正しい選択だと思っていたのが、実は違ったということもある。そんな時は大金を棒に振っても、違約金を払ってでも、すぐに辞めることにしている。実際、これまでにも何度かそういうことはあった

 1989年にフラメンゴで現役を引退したのち、私は請われてスポーツ担当大臣となった。ブラジルのスポーツのために尽力した日々は忘れられない思い出だ。しかし、やはり政治の世界は自分のものではないと感じていた。私のいるべき場所は草の匂いのするピッチだ、と。

 そんな時に住友金属から話がきた。


1991年、ジーコは住友金属に正式に入団した。左は当時の新宮康男社長 photo by Kyodo news

 日本の、それもアマチュアのチームでプレーし、チーム作りを助けてほしいという依頼に、私は正直、驚いた。新しくできるプロリーグに参加するためと説明されたが、それを引き受けるのは人生を賭けた大きな挑戦でもあった。私は悩んだものの、その新たな冒険に飛び込んでみることにした。まずは3カ月の「お試し」という条件で、私は日本に来た。この90日間で彼らが私に満足しなければ、契約は切られる予定だった。彼らが3カ月で私のクビを切らなくて本当によかったと、今でもよく思い返す。

私の鹿島での仕事は変わった

 チームの社長だった新宮康男氏。強い鹿島の礎を作ったのは彼だった。それから私を日本とつなげてくれたルイス・アントニオ高崎。ふたりには特に感謝している。彼らのおかげで、私は普通できないようなすばらしい体験をすることができた。

 すべてはゼロから始めなくてはいけなかったが、プロジェクトは誠実なものだった。もしうまくいけば、アジアの、いや世界のサッカーの地図も変えられるのではないかと興奮した。たぶんそれについて、私たちはいい仕事をしたと思う。この頃の私のフィジカルは毎試合出場できるコンディションではなかったが、可能な限りはプレーしようと思った。プレーできない時にはテクニカルスタッフの代わりをし、チームを助けることができた。

 そうこうしていくうちに鹿島は少しずつ結果を出せるチームへと成長していった。

 日本の2部リーグでプレーしたという経歴は、みんなを驚かせた。しかし、私にとっては特にどうということはなかった。住友金属がのちの鹿島アントラーズとなるために、最大の努力を払っていたことを知っていたからだ。だからこそ2部であれ、私は喜んでプレーすることを受け入れ、その責任を負った。

 あれから30数年が経った。

 私は現在、鹿島でクラブアドバイザーというポストについている。私に意見やビジョンを求める人を助け、選手、監督、チーム幹部をしてきた経験を生かして事実を分析することが私の仕事である。それによって鹿島が日々よくなっていくことが私の望みだ。

 それまで務めていたテクニカルディレクターというポジションでは、チームの幹部スタッフとして、選手の獲得や放出、監督やコーチとの交渉、サッカーの面ではユースからトップチームに至るまでの選手のプレーへの助言、果ては栄養管理に至るまで、すべてに関わっていた。

 だが今のアドバイザーという仕事は、私が何かを最終決定することはない。私は鹿島のためを思って、助言するだけだ。

鹿島と私の美しい物語だった

 もうひとつ、イメージという仕事がある。そのためにチームの広報やマーケティングに力を貸すのだ。サポーターとのイベントに顔を出したり、スポンサーとの関係に力を貸したり、チームのイメージアップにつながることをする。誠実で先進的なチームというアントラーズが常に持ち続けてきたイメージをキープすることに手を貸すのだ。

 ブラジルにいる時も、どんな些細なことでも、私は常にチームの力になる用意があった。24時間、私は彼らを助ける体制にあった。そのことは彼らもよく知っているはずだ。日本にいる時はよりアクティブになる。私は年に数回、日本に来るが、その時は可能な限り多くの試合を見るようにしてきた。

 試合のない日には、トップチームはもちろん、さまざまな年代のチームの練習も見るようにしている。もし誰かが、彼らのプレーや個々の選手に対する意見を求めてきたなら、できるだけ有効な助言をしたいからだ。そうしたアドバイスができることは私にとってもとても嬉しいことである。いつでも最高の答えを用意しておきたいと思っている。

 クラブアドバイザーとなったのは、私のアイデアではない。鹿島の幹部側から依頼されたものだ。正直、私はこのオファーに驚いた。鹿島は数年前から経営母体が変わっていたので、テクニカルディレクターとしての契約が満了したあとは、その続きはないと思っていたからだ。新経営陣が私を必要としてくれたことを嬉しく思う。チームが常に高いレベルにあるために、彼らはできる限りのことをしている。彼らであればきっと今後も鹿島を輝かせることができるだろう。

 ただ、たぶん今シーズンが、私が鹿島と仕事をする最後の年になると思う。鹿島と私の物語は美しく、すばらしいものだった。私はこの私のチームに、自分が持てるすべてのものを与えた。日本との関わりが切れることはかなり寂しいが、しかし「tudo bem(すべてよし)」だ。私はこれまで我がチーム、鹿島アントラーズにしてきたことを誇りに感じている。
(つづく)