片岡保幸「WBCメンバーには選ばれたくなかった」。その理由や巨人と西武の違いについて語った
片岡保幸インタビュー(後編)
前編:「足は速くない」のに4年連続盗塁王。なぜ片岡保幸はタイトルを獲得できたのか>>
中編:片岡保幸が振り返る伝説の走塁。「サインはギャンブルスタート。すべてがイメージどおり」>>
昨年まで巨人の二軍コーチを務めた片岡保幸氏
── 2008年、日本シリーズでの「伝説の走塁」を経て、翌09年の第2回WBCにも選出されて世界一の立役者ともなりました。WBCのメンバー入りした時の心境を教えていただけますか?
片岡 できれば選ばれたくなかったというのが本音でしたね(笑)。誇らしいとか、うれしいという思いもまったくなかったです。
── どうしてですか?
片岡 とにかく行きたくなかったからです(笑)。人見知りの部分はあるし......。ただ、選ばれたときに原辰徳監督から「おまえさんは大事な場面の代走として期待しているぞ」と言われて、「自分がやることは打つことじゃないんだな」と思ったら、少し気がラクになりました。事前合宿ではどこでも守れるようにファースト以外、サード、ショート、セカンドの練習をしていたし、走ることだけを考えていました。
── スタメン起用ではなく、代走中心の起用ということで、心理的な負担はかなり軽減されたということですね。
片岡 そうですね。「いい席で試合を見られるな」という気分でした(笑)。実際にはスタメン起用が多かったんですけど。
── この時、イチロー選手は片岡選手の俊足を称して「『ファミスタ』のピノみたいだ」と言っていました。めちゃくちゃ足の速いキャラクターですよね。
片岡 イチローさんにそう言っていただけてうれしかったし、光栄でしたけど、それでハードルが上がってしまうのはちょっと嫌でしたね(笑)。実際のところ、僕はそんなに足は速くないですからね。
── 以前のインタビューでは、「基本的にはミスを引きずるタイプ」と話していましたが、盗塁の際に「失敗したらどうしよう」とか、「国際舞台でミスをしたら......」など、ネガティブに考えることはなかったのですか?
片岡 たとえば、盗塁のケースで言えばスタートしてみないと結果はわからないんです。「アウトになったらどうしよう?」という思いは、まず頭から消すこと意識していました。ランナーとして一番イヤなのは牽制アウトなんです。だから、僕の場合はしっかりと5歩半の自分のリードをとって、「これ以上は出ない」「ここまでは大丈夫だ」と自分で決めたことを守るようにしていました。
「のびのびの西武」と「管理の巨人」── 渡辺久信監督の著書『寛容力』(講談社)を読むと、牽制でアウトになってベンチで落ち込んでいた片岡さんに向かって、「このチャンスはそもそもおまえがつくったものなんだから、気にするな」と声をかけた場面が載っていました。ご記憶にありますか?
片岡 ありますね。日本ハム戦だったと思うんですけど、僕が出塁して盗塁を決めて三塁まで進んだのに、牽制アウトになってしまった。その時に、「ヤス、そもそもおまえがこのチャンスの状況をつくったことがすごいんだ」と言われました。この言葉ですごく気がラクになりましたね。
── 2013年オフ、FA宣言によってジャイアンツに移籍しました。ライオンズとジャイアンツの違いなどはありましたか?
片岡 ひと言で言えば「のびのびプレーするライオンズ」と「徹底的に管理するジャイアンツ」というイメージですね。それは球団カラーの違いもあるのかもしれないけど、パ・リーグとセ・リーグの違いもあったのかもしれないですね。
── 具体的に教えてください。
片岡 セ・リーグの野球は細かかったです。練習メニューも全然違いましたね。キャンプの時でも、ジャイアンツではチームプレーに割く時間がすごく長かったです。投内連係であったり、牽制プレーであったり、毎日のように何時間もやっていました。でも、パ・リーグの場合は力の勝負というか、個々の技術の勝負なので、ライオンズでは連係プレーの練習もあったけれど、「あとは個々でやっておけよ」という感じでしたね。
── そもそもの考え方が、全然違っていたんですね。
片岡 自分のやるべきことを集中して練習できたライオンズと、チームのことを目いっぱい考えていたジャイアンツ。そんなイメージでした。あとはやっぱり、ジャイアンツは報道陣の数が多かったですね。
不完全燃焼の現役晩年── ジャイアンツでは、原監督が現役時代に背負っていた"8番"をつけました。原監督から、直々の申し出だったそうですね。
片岡 最初は断りました。重すぎますから。だから、「空いている番号なら何でもいい」と言ったんですけど、原さん自ら「おまえさんにつけてもらいたいんだ」と言ってもらって、そうなるともう断れないですよね。ライオンズでは「7」、ジャイアンツでは「8」と、いい番号をつけさせてもらったことは誇りに思います。
── ジャイアンツ移籍後は故障が続き、思うような成績を残せませんでした。巨人での3年間を振り返っていただけますか?
片岡 申し訳ないですけど、まったく活躍できませんでしたね。本当に行って、申し訳なかったという感じです。原監督としても、「もっと打ってくれるだろう」という思いだったはずです。いつも、「おまえさんの走塁には期待しているぞ」と言ってもらっていたのに、それを披露することができなかったです......。
── ジャイアンツへの移籍で得たものはありますか?
片岡 やっぱり、野球人としては「ジャイアンツのユニフォームを着てプレーができた」ということは誇りです。それに、さっきも言ったようにセ・リーグとパ・リーグの野球の違い、ジャイアンツとライオンズのチームカラーの違いを経験できたことは、これからにも役立つと思います。それに、社会人の東京ガス時代に一緒だった内海(哲也)と、また一緒にプレーできたのもよかったです。
── 現役最終年となった2017年は、一度も一軍出場することなく現役引退となりました。13年間のプロ野球人生は完全燃焼できましたか?
片岡 完全燃焼ではないですね。もう少し、華やかに終わりたかった。そんな思いはありますね。もともと、「自分は走れなくなったら終わりだ」という思いは持っていました。実際にそういう時期が来て、戦力外通告を受けましたけど、やっぱり「自分から引退する」、そういうところまでいきたかったという思いはあります。
── 「ケガさえなければ......」という思いは、ファンの人もみんな思っていたと思います。
片岡 現役晩年は、太もも、ふくらはぎ、膝......、いろいろケガもあったけど、ファンの方に支えられた現役時代でした。「もう一度、一軍のグラウンドに立ちたい」という思いでやってきたので悔しかったです。応援してくれた方々に恩返しできなかったことは心残りでしたけど、支えてくれたファンの方には心から感謝しています。
おわり