ヒルマン政権の日本ハムはなぜ強かったのか。森本稀哲が感じた、選手の集中力を生むメリハリ
森本稀哲が語るトレイ・ヒルマン 後編
(前編:「ヒットを打たなくていい」。野球人生を変えたヒルマン監督の言葉>>)
長らく優勝から遠ざかっていた日本ハムを、2006年にリーグ優勝と日本一、2007年にはリーグ連覇へ導いたトレイ・ヒルマン監督。当時、日本ハムの主力として活躍した森本稀哲氏に、ヒルマン監督の野球の特長を聞いた。
ムエタイファイターに扮した森本稀哲(左)とヒルマン監督
――森本さんは2005年に初の100試合出場を果たし、翌年には不動の1番打者となって2006年のリーグ優勝と日本一に貢献。2007年は打率3割をマークし、ベストナインも受賞しました。
森本稀哲(以下:森本) 僕とヒルマン監督が描く1番打者の理想像は、互いにマッチしていたと思っています。まだ二軍にいる頃からボールに食らいついたり、どんな形でもいいから出塁したり、迷いのないスイングをしたり......僕はとにかく「相手が嫌がる1番打者になりたい」と努力していました。結果が出ない時でも1番で起用し続けてくれたのは、そういう姿勢を評価してくれていたからなんじゃないかと思います。
――森本さんは、自分が1番打者に向いていると思っていたんですか?
森本 高校時代(帝京高)は基本的に3、4番などクリーンナップを任されていましたが、プロ入り後に二軍で初めて1番を任された時、「なんとなく自分に向いている」と感じたんです。それから徐々に「1番を打ちたい」という気持ちが強くなっていきました。
――ヒルマン監督の野球をひと言で表現するなら、どんな言葉になりますか?
森本 合う言葉があるとすれば、"ファイティングスピリット"ですね。チームが連敗している時などは、チームミーティングで「戦う気持ちはあるのか!」と、ものすごい形相で選手たちに喝を入れることがありました。常に勝ちを求める情熱に溢れていましたね。僕も戦う姿勢をどんどん前面に出して、1番打者としてチームを引っ張っていきたい、鼓舞したいというタイプなので、そこがマッチしていたんだと思います。
――当時、球界屈指の外野陣を形成していた新庄剛志さん(現日本ハム一軍監督)、稲葉篤紀さん(現日本ハムGM)、森本さんが、攻守交代の際に守備位置まで全力疾走するシーンが印象に残っています。
森本 二軍で監督を務めていた白井一幸さんが改革を進めていて、2003年にヒルマン監督が一軍の指揮官になった頃には、攻守交代の際の全力疾走が二軍では浸透していました。そのあと、新庄さん、稲葉さん、僕で外野を守ることになった時に、新庄さんから「守備位置につく時は、しっかり軽快に走っていこう」と言われたんです。
稲葉さんはもともといつも全力疾走していましたし、僕もよく走っていましたが、そこからより走る意識が高くなりましたね。グラウンドにいる時は常にファンから見られているので、攻守交代でも"魅せる"ことを考えていました。ヒルマン監督がミスを恐れずに思い切ってプレーできる雰囲気を作り、同時に新庄さんが「のびのびやろうぜ!」とリーダーシップを執ってくれたことが、チームの飛躍につながったと思います。
――球場のファンは見ていて気持ちがよかったでしょうし、相手チームには「隙がないチーム」という印象も与えていたように思います。
森本 個性的な選手が多かったので、端から見ると賑やかなイメージもあったと思いますが、プレー面ではすごく緊張感がありました。シートノックなども本当にピリッとした空気の中でやっていましたし、選手たちの集中力は半端ではなかったです。一方で力を抜いてもいい時は、ものすごく抜いていました。楽しむ時はワーッと楽しんで、やる時はガッとやる。そういうメリハリがありましたね。
――ヒルマン監督時代の日本ハムは、投手を中心にした守り、つながりを重視して確実に1点を取りにいく野球が徹底されていた印象があります。当時、楽天の野村克也監督は「強さを感じないんだけど、なぜだか負けてしまう」と、独特な表現で試合巧者ぶりを評価していました。
森本 その言葉は、当時の僕たちにとっての最高の褒め言葉です。特に、リーグ最少の73本塁打でリーグ優勝した2007年は、チームを象徴するシーズンでしたね(一方で、失策数はリーグ最少の65、犠打はリーグ断トツの151、盗塁リーグ2位の112だった)。勝負どころをおさえて、勝ちにつなげられるチームでした。
――ヒルマン監督のもとでプレーする中で、新しい発見はありましたか?
森本 シーズン中の休みが多かったことです。僕も若かった頃は"練習漬け"になりがちでしたが、休みが多かったおかげでオン・オフのメリハリがつきましたし、「時間の使い方」の勉強にもなりました。キャンプの練習もダラダラと長くやるのではなく、メニューごとに時間をしっかりと管理する"短時間集中型"に変わりました。
最初は僕らも「本当にこれくらいでいいのか?」と少し不安になりましたが、練習が短くてあっという間に終わる分、「集中して取り組もう」という意識が高まりました。チームでの練習以外の時間も、自分にとって必要なものを考えるようになりましたね。自主的に取り組む練習ほど身につくものはない、ということにも気づかされました。
――東京から北海道に本拠地移転(2004年)した時の指揮官でもあるヒルマン監督は、地域のイベントに出演するなど、球団が地域に溶け込めるようにファンサービスにも尽力していました。
森本 北海道に移転したばかりの頃は球団の知名度も低く、ファンもまだ多くはなかったですからね。移転当初に開いた、選手たちのサイン会がガラガラだったという話も聞いたことがあります。ヒルマン監督もそういった経験をしたことはなかったでしょうし、相当苦労したと思います。でも、ヒルマン監督をはじめ、球団スタッフや選手たちのひとつひとつの努力が報われて、今につながっている。あらためて振り返ると感慨深いですね。
【プロフィール】
■森本稀哲(もりもと・ひちょり)
1981年1月31日生まれ。東京都出身。帝京高校の3年時に主将として夏の甲子園に出場し、1999年のドラフト4位で日本ハムに入団。2006年から3年連続でゴールデングラブ賞を受賞、2007年はベストナインに選ばれた。2011年に横浜ベイスターズ(現DeNA)に移籍し、2014年には西武にテスト入団。2015年に現役を引退後は、プロ野球解説やメディア出演など幅広く活躍。2023年シーズンから、日本ハムの一軍外野守備走塁コーチを務めることが発表された。
公式Twitter>>@onifukkusencho 公式Instagram>>