「誰か来てるの…？」夫婦喧嘩で家出していた妻が、1週間ぶりに帰宅。玄関で見知らぬヒールを見つけ…
『20代のうちに結婚したほうがいい』
一昔前の価値観と言われようとも、そう考える女性も少なくはない。
そんな焦りにとりつかれ、30歳目前でスピード婚をした広告デザイナー・穂波。
しかし穂波は、すぐに後悔することになる。
「なんで私、焦ってプロポーズをうけてしまったんだろう」
私にふさわしい男は、この人じゃなかった――。
◆これまでのあらすじ
颯斗の会社の周年パーティーで、穂波は意を決して颯斗に思いを伝える。しかし、颯斗から、冷たいリアクションをとられるのだった。
周年パーティーから引き上げた穂波は、逃げるようにホテルの部屋へと戻ってきた。
「颯斗…どうしてなの」
ドレスを脱ぎ捨て、大きなベッドにうつ伏せに倒れ込む。
押せば絶対になびくと思っていたのに、颯斗は「勘違いさせちゃった？」と迷惑そうに言ったのだ。
「あーーー」
失望と羞恥で、消え入りたい気持ちだ。まくらに顔をうずめ、言葉にならない声を出す。
ひとしきりもがいたあと、はっとした。
― 私、今からどうすればいいんだ？
一樹のもとに帰りたくはない。かといって颯斗をあてにもできない。途方にくれたとき、スマホが震えた。一樹からのLINEだ。
一樹：心配なので、いい加減、返事ください。どこにいるの？
一樹からの通知を放置していたせいで、着信とメッセージが溜まり、未読件数が32件にのぼっていた。
トークを開くと「帰ってきて」という旨のメッセージが、毎日送られてきてる。
「とりあえず…帰るか」
いつまでもホテルにいるわけにもいかない。観念した穂波は、荷物をスーツケースに入れ、麻布十番のマンションへと戻った。
「ただいまー」
1週間ぶりにドアを開けたその時、穂波は固まる。
玄関に、自分のものではないヒールの靴がきれいに揃えられているではないか。
「え？なに？誰か、来てるの？」
長い廊下を進み、リビングへと続くドアを開ける。
「あら、穂波さん、おかえりなさい」
そこには、一樹と、そして義母がいたのだ。
「よかった、穂波さん。戻ってきたのね。一樹、よかったね？」
義母は一樹を見ながら、うんうんと頷く。
「あの…お義母さん…なんでここに」
「だって、こんなに広い部屋に一樹ひとりだなんて、あんまりでしょう？」
義母は上品な口調で「穂波さん、本当に離婚を切り出したの？」と聞いてくる。
返事に窮していると、義母は微笑んだ。
「あなた、ただのマリッジブルーっていうやつよ」
「え？」
「よくあることよ。相手がどんなに素敵でも、不満に思えてくる時期なの。私も新婚時代に経験したから、わかるわ」
義母は、ティーカップを手に持ち、優雅に紅茶を一口飲んだ。
「でもね、穂波さん。一樹とは、彼氏彼女じゃなくて、もう夫婦なのよ。離婚って言葉がどれだけ大きな話に発展するか、わかってほしいの」
諭すような優しい口調だったが、義母は相変わらず、穂波の気持ちや言い分を聞こうとしない。
顔合わせのときもこんな蔑まれた気持ちになったことを思い出し、不満がわき上がってくる。
「私、マリッジブルーなんかじゃないです」
「え？」
「問題はもっと深刻です」
義母は、表情を崩さず、言葉を待っている。
「お義母さん、一樹さんの理想の女性像を知ってますか？…一樹さんの理想は、お義母さんみたいな女性なんです。男性を立てて、身の回りの世話をして、いつも微笑んでいて」
「まあ…」
義母は、褒められたと思ったのか、頬を染めた。
「私は、そういうの、嫌なんです。すみませんが、お義母さんみたいな女性には、憧れないんです」
一転、義母は真顔でぽかんと口を開け、穂波を見た。
「どういう意味？」
「正直に申し上げると、顔合わせのときから違和感がありました。あの日、お義母さん、私になんておっしゃったか覚えてますか？
どんなときでも、なにがあっても笑顔で、一樹さんを支えるようにって言われましたよね」
「…言ったと思いますわ」
「相手を支えて終わる、お義母さんみたいな人生なんて、ごめんです。私の人生の主役は、私です」
ちらっと一樹の様子を見る。ソワソワしながら、母親の顔色をうかがっているようだった。穂波は続ける。
「一樹さんに以前、ふと言われたことがあります。『結婚して、僕の船に乗ったんだから』と。でも、私は、誰の船にも乗りません。自分の船からは降りません」
「穂波さん、あなたね…」
「私の理想は、一樹の理想とは大きく違う。無理なんです」
静寂が訪れた。暖房から出る鈍い音が、部屋中に響く。
毎秒重くなる空気の中で口を開いたのは、一樹だった。
「なら…僕が、穂波の理想に、歩み寄ってみようと思う」
「え？」と義母が眉をつりあげる。
「いいんだ。僕が、穂波の理想とするような関係を、作ってみるよ。もしそれでダメだったら…離婚について本当に考えよう」
「待ちなさい。穂波さんは、結婚をまるでわかってないわ。改めるべきは、穂波さんの方よ」
「ごめん、母さんは、黙ってて」
一樹は、落ち着かない様子で耳のあたりを触りながら言った。
「穂波が家を出て、連絡もつかなかったこの1週間、僕はしんどかった。今穂波が戻ってきてくれて、すごく…嬉しいんだ」
納得のいかない様子でもごもごしている義母に、一樹は付け加えた。
「穂波とやり直せる方法があるか、試したい。もしやり直せるなら、それがベストだと思うから」
◆
人は、意識次第でこんなに変われるものなのか。
翌日から穂波は、何度も驚くことになる。
ゴミ出しとトイレ清掃、食器洗い。この3つを「僕がやる」と宣言した一樹は、「さすがに料理はできないけど、週の半分くらいはテイクアウトや外食にしよう」とも言った。
「それから僕、仕事を辞めてほしいって頼んだけど、それも撤回するよ。穂波の人生なんだから、仕事、していいよ。その場合、僕も家事の分担をもっと増やすから」
本気で歩み寄ろうとしてくれている。心の底から実感し、穂波は満足した。
こうなると、くすぶっていた颯斗への気持ちもあっけなく消えるものだ。パーティー以来音沙汰のない颯斗とのLINEを、スワイプして消した。
それから1週間。
宣言通り、一樹は毎日しっかりと仕事をしながら、家事もしている。外食にも連れて行ってくれる。
おかげで穂波は、カフェや買い物に行ったり、テレビの前でストレッチをしたり、悠々自適に時間を使えるようになった。
― ああ、これぞ、理想的な暮らし。一樹と結婚してよかったかも。
うっとりした気持ちで、22時すぎにベッドに入ると、一樹の柔らかな声が聞こえた。
「式場、僕が勝手に出雲大社にしようって言ったの、よくなかったよね。本当は、理想があるよね？」
「うん…都内の人気の式場で挙げたい。豪華な式にしたい。あと、エステ代も必要ね。一番きれいな私で出たいから」
「はは、お金はいくらになってもいいよ。穂波の満足いく式にしよう。週末、どこかの相談会に行こうか？」
眼鏡を枕元に置いて小さく笑った一樹を、素敵だと思った。
冷めきっていた気持ちが、息を吹き返している。穂波は、一樹の肌に触れ、随分久しぶりのキスをした。
◆
「どうぞ、お掛けください」
予定通り週末に訪れたのは、都内の一流ホテルのブライダル相談会。うやうやしく接客をされ、気分が良い。
― 一切妥協せず、最高の式場を見つけよう！
チャペルの写真や、料理の写真を見ながら、説明を受ける。一樹との幸せな結婚式を頭に思い描き、夢中で話を聞いていた最中のことだった。
「ん…？」
膝の上のスマホがふるえる。電話だ。画面には、颯斗のLINEアイコンが映っている。
― 颯斗…一体なんの用だろう…。あのパーティーで、あんなに冷たい態度とってきたのに！
「誰かから電話？別に出ていいよ？」
「ううん、大丈夫よ」
バッグの奥にスマホを押し込もうとしたとき、着信が切れた。間髪入れずにメッセージが送られてくる。
その通知を見て、心臓が跳ねた。
颯斗：電話したい。この前はごめん。あんなこと言って、後悔してる。お願いだ、話せない？
― 後悔…。
いとも簡単に、穂波の心は揺れる。
― 話ってなんだろう？
「一樹。ちょっといい？やっぱり友達が、急ぎの話があるみたいなの。電話してきてもいい？」
「え？うん、もちろん」
穂波は、小走りでホテルの隅にある階段を下り、踊り場に移動。すぐに電話をかけ直した。
「もしもし…颯斗？」
「ああ、穂波。ごめん、急に。あのさ…俺さ…」
いつになく暗い、くもった声。この直後、颯斗はまさかの話を打ち明けたのだった。
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颯斗の言葉に、穂波はありえない行動に出る
