※この記事は2021年04月16日にBLOGOSで公開されたものです

私には、語る資格はあるのか。

経験してもいない地震のこと。
住んだこともない「理想郷」のこと。

葛藤しながら、それでも語り部を続けた4年間で、見えたものとは。
学生生活最後の「語り」に、彼女はすべてを込める。

3月19日、熊本県・南阿蘇村。
開通したばかりの「新阿蘇大橋」は、多くの観光客でにぎわっていた。

橋のたもとにある展望台目当てに、乗用車が次々と駐車場に流れ込んでいく。
だが、その軽自動車だけは付近をすり抜け、あっという間に橋の先へと走り去った。

目指していたのは、黒川地区の「新栄荘」。
菜の花畑の真ん中に建つアパートの軒先で、そわそわと管理人の女性が待っている。

軽自動車はその駐車場に入って停まった。助手席から、ひとりの女性が姿を現す。
鮮やかなブルーの晴れ着をまとっている。灰色の雲が低く垂れ込める山の景色が、一瞬でパッと明るくなったような気がした。

「ただいま」

少し気恥ずかしそうに、晴れ着の女性は言った。

「おかえり。とても素敵ね」

管理人の女性はそう言って、静かに涙を流した。


ここに住んだことがないのに


走り去る軽自動車に、管理人の女性、竹原伊都子さんはずっと手を振っていた。

「本当に、立派になって。最初は引っ込み思案で、人前で話せないほどだったのに」

しみじみと言う。

「あの子は黒川地区に住んだことがないんです。なのにここを『ふるさとだから、また来るね』と言ってくれました」

思い出して瞼の裏が熱くなったのか。
ぐっと目頭をおさえてから、語気を強めて言う。

「あの子はきっと、素晴らしい社会人になります。黒川のみんなが保証します」

大学生として最後の「語り」


晴れ着姿の女性の名は、辻琴音さん。
東海大農学部の4年生で、この日が大学の卒業式だった。

着付けをしたのも、卒業式の会場も、熊本市内。
だが、どうしても竹原さんに晴れ姿をみせたかった。往復2時間、滞在わずか10分。そのために、軽自動車を飛ばした。

「本当に大事な人なので。私たちの活動を、ずっと応援してくれていました」

辻さんは在学中、有志による団体「阿蘇の灯」で代表を務めていた。
2016年に起きた熊本地震の被害を伝える「語り部」活動をするグループだ。

すでにサークルは「代替わり」をしていて、久しく自分で語り部をすることはなかった。
だが今回、全国の読者向けに、特別に語ってくれることになった。

大学生として、最後の「語り」。
辻さんはしばらく目を閉じると、ゆっくりと話し始めた。

おしゃれ好きの男子学生は…


まず、学生村の「目印」に、辻さんは聞き手をいざなう。


黒川地区の入り口には、大きな看板が1つあります。
南阿蘇村の中心部からのびる道沿いに、まどかというカレー屋さんがあって、そこを左に曲がってちょっと進んだところ、右に曲がる角のところです。その看板には案内図が描かれていて、学生向けのアパートがたくさん載っている。それぞれに番号がついていて、60番近くまであります。

看板を中心にだいたい徒歩10分以内の付近が、かつて「学生村」と言われていた黒川地区です。どこからでも、高台のほうに、塔や校舎が見える。それが東海大農学部のキャンパス。約1000人が在学していて、そのうち800人くらいが学生村には住んでいました。みんな歩いて登校していました。

黒川地区の人口はだいたい1000人。そのうちの800人前後ですから、本当に住んでいる大半が学生だったんです。


そして辻さんは、ひとりの男子学生のことを語りだす。


2016年の熊本地震には、前震と本震がありました。

その本震、4月16日未明の地震が、東海大と黒川地区を直撃しました。学生も犠牲になったので、語り部活動では亡くなられた現場も回りながら、当時のことを語らせていただいています。今回は写真を使って、現地の様子をお伝えしますね。

看板からカレー屋さんの方向に少し戻ると、ひとりの男子学生が亡くなったアパート跡があります。今は取り壊されて、機材や資材が置かれた広場になっていますが、亡くなった場所だけは空けられていて、いつもお花がたむけられています。

彼はそのアパートの1階に住んでいました。おしゃれ好きで知られていて、その部屋に入ると、玄関にお気に入りの靴がズラリと、キレイに並べられていたそうです。

本震が起きて、アパートは1階部分がつぶれてしまいました。彼は玄関の付近で亡くなっていたそうです。なんとか逃げ出そうとしたのでしょうか。


学生村"知らない"世代


とても詳細に、ディテールを語る。

報道などにおいては、犠牲者は「1人」というように、数字で表されてしまう。
だが、彼女の語りの中では姿かたちを伴う、現実的な存在として浮かび上がってくる。

「でも、私も実は、この方に会ったことがあるわけじゃないんです」

ポツリと言う。
語り部の活動を4年間続けてきた辻さんだが、大学入学は地震の1年後。つまり地震当時の学生村のことを知らない世代なのだ。

「地震の原因になった断層は、東海大の校舎の真下を通っていました。危険な場所だということで、私が入学した時にはすでに農学部は熊本市内に移転していたんです」


「そこにいた」と言えずに


生々しく、辻さんの語りは続く。


その男子学生が亡くなったアパートには地震当日、「阿蘇の灯」の先輩がいました。
代表も務められた林風笑(かざえ)さんです。

アパートの2階には、風笑さんの親友が住んでいました。
黒川地区は2日前の前震の際にも、強い揺れに襲われていた。だから「怖いから一緒にいよう」となって、風笑さんは親友のお部屋に泊まっていたそうです。

本震は午前1時過ぎのことでした。
2人とも眠っていたけど、ありえないほどの揺れに驚いて目覚めた。揺れがおさまって、外はどうなっているのかと確認したら、2階のはずが目の前に地面があった。とんでもないことが起きたと、その瞬間悟ったそうです。



風笑さんは当時2年生でした。なんとか外に出ると、すでに3、4年生が大家さんと一緒に、他の学生の安否確認や救助活動を始めていたそうです。1階部分からは「助けて」という声も聞こえたといいます。

風笑さんはのちに語り部団体の代表として、そこで亡くなった男子学生さんのご両親ともかかわることになります。でも、自分が助かっていることが後ろめたく思えて、あの晩自分が同じアパートにいたことはずっとご両親に言えなかったそうです。


止まらない涙。「語る資格はあるのか」


「私もご両親とは、交流を持っています」

辻さんはそう言うと、語りだしてから初めて言葉に詰まった。

「今、あらためて思うのですが、自分の大事な家族を亡くしたのに、私たちを応援してくれる姿を見ていると…なんというか、表現のしようがない気持ちになるんですよね」

風笑さんは、同じアパートにいたことを、ご両親には打ち明けられなかった。
それとは違う「後ろめたさ」が、辻さんにはあった。学生村の様子も知らない自分の活動は、ご両親に支援してもらう価値があるのだろうか。

「地震も体験していなければ、学生村のことも知らない。なのに、語る資格はあるのか。語り部団体に入ってから、ずっと悩んできたことでした」

体験したからこその生々しい語りで、先輩たちは聞く人をグッと引き付けていた。
団体に入った当初の自分には、それができなかった。先輩と同じ内容を語っても、言葉が上滑りしているような気がした。

伝わらない。伝わるわけがない。
そう思って、語りの途中で泣きだしてしまったこともあった。やむなく、後を受けて語りだした先輩の話に、聴衆があっさりと聞き入りだす。

その様子を見て、また泣けてきた。

最初は声がしたのに…


辻さんの語りは、他のアパートに場面を移した。


黒川地区の真ん中、さっきご挨拶にうかがった新栄荘近くのアパートでも、1人の女性の先輩が亡くなりました。

そこも2階建てで、木造のアパートでした。
1階部分がつぶれてしまって、高さ数十センチ、つまり人がねそべってぎりぎりの高さまで天井が落ちてしまいました。

その1階部分に、亡くなられた学生さんはいました。
黒川地区はプロパンガスを利用している建物が多い。そういうところは外にボンベが並んでいるんですが、亡くなった方の部屋はガスボンベの一番近くにありました。



地震後は、あたりにはガスのにおいが充満していたそうです。
夜中の黒川地区は、光源といえば月明かりくらいのものでした。だからみんな、乗用車のライトで救助活動をしていました。ガスに引火するといけないから、かなり遠いところでエンジンをかけて、ライトをつけた。そんな状況なので、救助活動もプロパンガスから遠い部屋から順番にやるしかなかった。

しかも、救助隊がすぐに来られない状況でもありました。阿蘇大橋も落ちて、道も遮断されていた。無事だった学生と大家さんとで、自力で救助していくしかなかった。

亡くなった方の部屋からも、最初は助けを求める声が聞こえていたそうです。
ですが、助けるのが遅れるにつれ、だんだん声も聞こえなくなった。


命救った「奇跡」と「備え」


生き埋めになりながらも助かった。
そんな学生の証言も、辻さんたちは集めてきた。


私たちは、同じアパートの1階で助け出された人のお話をうかがいました。
ひとりぐらしの部屋は、えてしてそんなに広くない。ベッドを置いたら、隣にすぐにテーブルという感じになりますよね。その方は、地震の衝撃でベッドとテーブルの間の狭い空間に落ちたそうです。

すぐに天井が落ちてきましたが、ベッドとテーブルが支えになって、下敷きにはならなかった。それで命にかかわってしまうようなケガをせずに済んだそうです。ただ、生き埋めの状態には変わりはない。

その方は、前震以来「何かあった時のために」と使っていなかった古いスマホも充電していたそうなんですが、手を伸ばすとその充電ケーブルに触れることができた。



真っ暗な中でしたが、それを手繰り寄せて、スマホ本体を手にすることができた。 さて、この時この方は、救助を仰ぐためにスマホをどう使ったと思いますか?

その人はすぐに操作をして、アラーム音を鳴らしたそうです。いつ助けてもらえるかわからないから、体力を温存するために、声を出すのではなく機械音に頼った。しばらくして、外の人がその音に気付いた。呼びかけに対して初めて「助けて」と叫んだ。そして2時間後、救助されたそうです。


「自分なら」と思ってもらうために


「こうやって、語りを聞いてくださる方に質問を投げかけて、というのは、東日本大震災の語り部の皆さんから学びました」

辻さんはそう明かす。

地震も経験しておらず、学生村のことを知らない自分に、語り部は務まるのだろうか。
そう言って悩む辻さんに、語り部団体の先輩たちは「あなただからこそのやり方があるはず」と助言をした。

当時を知らないからこそのやり方って、なんだろう。
すぐには答えは出なかった。とりあえずは、いろいろ学ぼうと思った。

もともとは引っ込み思案で、知らない人とかかわるのも得意ではなかった。
それが、スマホのアラームで助かった学生をはじめ、多くの先輩の証言を聞いて回るようになった。学生村の先輩の気持ちを知るために、黒川地区に通っては、住民みんなと交流を持った。

さらには、東日本大震災の語り部を訪ね、実際の語りを聞かせてもらった。

「あなたなら、津波が来たらどうしますか?」

そう問いかけられて、辻さんは自然と「自分ならどうするか」と考え込んだ。
そして、なるほどと思った。質問も交えたほうが、一方的に話しているよりもはるかに、聞く人に「自分ごと化」をしてもらえる。

「生き残る」は誰のため?


辻さんの語りは、大詰めに入った。


熊本地震の本震で、お亡くなりになった先輩は3人いらっしゃいました。

3人目は、同じ熊本県内の八代出身の方でした。他のおふたりとはまた別のアパートで亡くなられました。
実家が近いこともあって、本震の2日前に前震が起きた時に、ご両親から「また余震が来るかもしれないから、帰っておいで」とご両親に言われていたそうです。

被災地にお住まいだった多くの方もそうだったと思うのですが、その先輩も「あれが一番強い揺れだろうから、もう大丈夫」とおっしゃった。それで学生村に残られて、命を失われてしまいました。



ご両親からお話をうかがう機会もあったのですが「もっと強く言えばよかった」ととても後悔されていました。
お子さんが亡くなられた現場に初めて足を運ぶまで、3年くらいかかったとか。気持ちの整理というのは、そう簡単につくものじゃないと、あらためて思います。

命を守るというのは、自分のためだけじゃない。
自分を大事に思ってくれる人のためにも、命を守らないといけないのだと、強く感じます。


知らない世代だからこその「語り」


自分のことを大事に思ってくれる人のために、命を守ろう。

「それは南阿蘇だけのことでも、災害が起きた地域に特有のことでもない。今を生きているすべての人に共通して大事なこと、ですよね」

辻さんはしみじみと言う。

ずっと自分のことを、学生村経験者の先輩たちと比べ続けてきた。
自分と先輩の間に、勝手に壁をつくっていた。「乗り越えられない」と限界も感じていた。

だが「なんとか自分も」と必死になったのは、無駄ではなかった。
学生村の面影を追って、南阿蘇に足繁く通っては、先輩と同じように黒川の住民と交流を持ち続けた。

“残された人たち”からは、いろいろな話を聞いた。後ろめたさ。消えない後悔。
そうした4年間の積み重ねで生まれた言葉。それが「命を守るというのは、自分のためだけじゃない」だった。

経験がないからこそ、たくさん話を聞いて回らないといけない。
その一心で活動してきた辻さんだからこその「語り」が、いつしかできあがっていたのだ。

風化をふせぐ、唯一の道


語り部の活動の中心は、これから後輩たちが担うことになる。

「私たちと違った難しさを抱えて、活動するんだと思います」

中心となるのは新3年生。
これまで2年間の活動期間の大半が、コロナ禍と重なっている世代だ。

学生村のことを知らない上に、辻さんのように黒川地区に足繁く通うこともできなかった。
語り部の活動も、数えるほどしか経験できていない。

「正直、苦しいと思います」

辻さんは率直に言う。

「先輩がやってきたから同じように続けないと、というのだけは違う。そうはしてほしくない。自分がやりたいと望むことじゃないと、続かないと思うんです」

ただ、と彼女は付け加える。

「やりたいと思えさえすれば、やることには価値はあります。仮に一度活動を休止したとしても、やりたくなったらまたやればいい。それぞれの立場、それぞれのタイミングで、自分だからこそできることというのは必ずあります」

それこそが、学生村を知らない世代として、活動を続ける中で気付いたことだった。

被災地のために何かをしたい。
そう思うすべての人に「その人だからこそ」という必然性はある。

「そうやって、たくさんの人がそれぞれに被災地のことを思い続ける。それこそが、風化をふせぐ唯一の道のように、私は思います」

熊本から、全国の"あなた"へ


学生語り部としての、最後の語り。
辻さんはゆっくりと締めくくる。


地震後、農学部は市内のキャンパスに移るかたちで、座学が再開しました。

それでも語り部団体の先輩たちは南阿蘇に通った。地震の語り部の活動、それから地域の皆さんとの交流活動を続けました。「いずれは南阿蘇に戻れる」と信じて。

残念ながら、農学部は南阿蘇キャンパスには戻れません。校舎の真下を断層が通っていて、またああいうことが起きるかもしれないから。
でも確かに、南阿蘇に「学生村」は存在していました。そのあり方は、私たちに大事なことを教えてくれています。

学生村の付近には、店といえばコンビニが1つだけしかありませんでした。
生活するためには、隣の大津町まで車で買い出しに行くしかありません。だから学生たちは時に、地域の皆さんに買い物に連れて行ってもらうようなこともありました。

他にも、いろいろとお世話になりながら、村で生きていく。
都会での暮らしと違って、そこには密接なコミュニケーションがありました。



プライバシーも何もない。そう思う学生もいたかもしれません。でもその密接さは、地震が起きたときにプラスに働きました。
アパートが倒壊した現場では、どの部屋に誰がいるのか、みんなちゃんと把握していました。「声がしないけど、それは今週、旅行に出かけているからだ」というような感じで、安否確認に役に立ったのです。

初期の救出活動でも、地元住民の方と学生がうまく連係して動かれていたと聞きます。それも普段からのお付き合いがあったからこそでしょう。

さて、あなたはいかがでしょう?
近所の人たちとのコミュニケーション、とられているでしょうか?

災害は、どこにでも起きるものです。
「起きたらどうしよう」を、この機会にぜひ考えてみてください。

あなたを大事に思ってくれる人たちのためにも。


【取材協力=阿蘇の灯】