※この記事は2020年08月26日にBLOGOSで公開されたものです

新型コロナ感染症の拡大によって、テレワークやオンライン授業など、さまざまな分野で遠隔化が進んでいる。そうした流れを受けて、京都大学人社未来形発信ユニットはオンライン公開講義「立ち止まって考える」を7月4日より開講した。この講義では、YouTubeとTwitterでの生配信を実施しており、最初の土日の4講義だけで同時視聴者数のべ1万5000人を達成、今後の新しいオンラインでの学びの先駆けとして注目されている。

本講座の興味深い点は、これまであまりオンライン化に積極的ではなかった大学による比較的大規模な取り組みであること、そして新型コロナパンデミックを「人文学の視点で見る」というユニークなテーマ設定だ。そこで、人社未来形発信ユニットのユニット長であり、京都大学大学院文学研究科の出口康夫教授にオンラインの可能性と課題、そして人文学の価値について話を伺った。

「新型コロナ×人文学」独自視点でオンライン講座を実施

そもそも、なぜ今回「新型コロナ×人文学」というテーマでの開講となったのだろうか。出口教授によると、前へ進んでいくために、コロナ禍によって大きく揺らいだ価値観を人文学の立場から再構築していく意義があるという。

「コロナ禍にあって、個々のソリューションではなく、それを前提してはじめてソリューションを描くことが可能となる、人類が蓄積してきたさまざまな価値のフレームワークを、時代や地域にとらわれずに広く紹介し、それを今を生きる指針として社会に提供するのが人文学の役割であると、我々は考えました。」

例えば、人文学は、さまざまな歴史上の出来事の記憶や痕跡を書物や遺物という形で蓄えており、必要に応じて、そこから、今日的な意義や教訓を導き出すこともできると、出口教授は語る。

具体的には、歴史を振り返れば、人類はペストやスペイン風邪をはじめとしたパンデミックに対処してきた経験を数多く持っている。この経験を人文学者が分析することで、ウィズコロナ、アフターコロナの社会を再起動するための新たな知見や方向性を示していけるというのだ。

オープンな配信で多様な視聴者集まる 理解度の高さに驚き

本講座は、誰もが参加できる完全公開型講義として注目され、いくつかのメディアにも取り上げられた。これは、履修した学生のみが聴講可能な大学の講義や、会員制や事前申し込み制が主流の学会やシンポジウムとも異なる。参加者の反応を見て、出口教授は改めてオープンな配信の意義を感じたという。

「今回意義深かったのは、これまでの公開講演会やシンポジウムには参加できなかった層、例えば現役の子育て世代の方にも視聴していただけたことです。」

出口教授が特に印象的だったのは、視聴者層の質の高さだったという。

「いわゆる『大学レベル』の難度の話をしても、きちんとフォローしていただける方がこれだけ広い層にわたっておられるのかと驚きました。この社会が持つ知的な底力を改めて感じました。」

今回、出口教授が担当した哲学講義では京都大学の学部や大学院での講義と同じレベルの授業が展開された。その内容は抽象的な議論を積み重ねるものであり、京大生にとっても難解な点が多々あったはずである。しかし、リアルタイムで展開されるコメント欄やSNSへの書き込みを見ると、多様なバックグラウンドを持った視聴者が、講義のポイントを的確に押さえていたことがわかる。

さらに、チャット欄の開放は、予想以上の効果をもたらした。講義の配信を担当した大西特定准教授は「チャット欄は奇跡のような空間」と語る。対面式では挙手をしなければできない質問も、チャット形式だとよりしやすくなる。結果、講師をしばし考え込ませるような鋭い質問がいくつも飛んできた。同時にチャット欄では視聴者の間での「私語」も可能だ。講義中の「ひそひそ話」を通じて学びの仲間を作るプロセスが、オンラインで実現されていた。

改めて気付いた「対面の良さ」

一方、講義を通じてオンラインのメリットを感じれば感じるほど、改めて気付いたのが「対面の良さ」だった。出口教授はその本質を「身体性」と表現する。

「人類は遠隔環境で進化したわけではない。太古の昔から、知識や情報の伝達は、親から子供、前の世代から次の世代へと、対面で行なわれてきた。我々の認知には、『対面的な情報伝達でないとしっくりこない』という進化的なバイアスがあるのではないでしょうか。これは人が人である以上はそう簡単には変わらないと思われます。」

オンラインでは、対面的な情報伝達において重要な身体性が抜け落ちてしまう。ここでいう身体性とは、話す姿勢や表情、話し方の癖など、話者の身体的なキャラクターに関わる特徴である。ところがバストショットしか映らず、身体の画像自体も少なからず平面化されたオンライン会議ではこれらの特徴をビビッドに伝えることが難しいというのだ。

「この先、社会のオンライン化がいくら進んだとしても、我々の生が24時間オンライン化されるわけではない。我々の生には、つねに身体的に生き、他者と交わっている部分が残るはずです。」

オンライン講義は、抜け落ちる身体的情報をいかに補完しうるか。難しい課題ではあるが、視聴者からのコメントにそれを解くヒントがあった。

「今回の講義は、我々の研究室から配信しています。当然、画面には、例えば研究室の書架に並ぶ本とか、机の上に置かれているグッズとか、背後にかかっている服などといった研究室のアイテムが映り込むわけですが、それらに興味を持たれた視聴者も少なからずおられたようです。」

オンデマンド形式の講義はスタジオや教室での撮影が一般的だ。それに対し、研究室からの講義では、視聴者は「講師の知的な生活空間に入っていく」ことができる。生活空間とは、その中で暮らす人の身体が刻印されている空間でもある。生活空間を垣間見ることで、視聴者は、講師の身体性を間接的に感じとることができ、結果として、オンライン化で抜け落ちる身体情報を補完することができるのではないか。出口教授らは、こうした工夫の積み重ねによって、オンラインとリアルの隙間を埋めていこうと考えているそうだ。

オンライン化で存在意義失う?大学のあり方に課題も

オンライン化による学びの未来について出口教授に聞くと、今後は「遠隔化と自動翻訳が鍵となるのではないか」と話してくれた。

新型コロナの影響もあり、日本にも大学の遠隔化や、さらには脱大学化の波が押し寄せることは十分考えられる。一方、世界中から視聴可能なYouTubeで外国語字幕付きの講義を配信することで、海外の学生や留学希望者にも、日本の大学の魅力を届けられるようになる。また時間と場所にとらわれない受講が可能となる遠隔講義が広がれば、社会人にも学びの場が広がっていく。

自動翻訳の恩恵を特に大きく受けるのは、英語をすでに共通言語として用いる理系分野だ。自動翻訳が発達すれば理系のラボにおける言語的障壁が無くなり、言語による教育上や研究上の格差が一気に縮まる。また研究以外でも、学生同士の課外活動や社交における言葉の壁もより容易に乗り越えられるようになる。

こうした状況が生まれれば、国境を越えた学生の流動性も再び高まっていくだろう。だが、遠隔化が進むポストコロナの大学のグローバル化は、ビフォーコロナのグローバル化とはその様相を異にする。実際は地元にとどまりつつもオンラインで他国の大学の授業を受講するオンライン留学も増えていくはずだ。結果として「特定の大学に所属する意味や価値とはなにか、学生側も大学側も再考せざるを得ないのではないか」と出口教授は問いかける。

「特定の大学に属することの意味は、キャンパスライフやサークル活動にもある。このことは社会の常識として広く共有されていたでしょうし、アメリカ型のリベラルアーツカレッジが自らのウリとしていた点ですが、これらのメリットを目に見える形で言語化して、遠隔化の流れの中にあってもそれらを意識的に再確保していかないと、今後日本だけでなく、世界の大学がその存在意義を失う危険性があると思います。」(出口教授)

オンライン公開講義の実施は、大学発の発信や学び、人文学のあり方にも一石を投じることとなった。それは単なる一つの成功事例に留まらず、これから起こりうる世の中の変化を先取り的に象徴しているケースなのかもしれない。

「我々としても、今回のような講義の無料配信を国立大学の使命であると考え、今後もできれば続けていきたいと考えています。今年の冬にはシーズン2を、さらには来年も、という声もすでに出ています。」

新型コロナパンデミックを人文学から捉えることは多角的な視野を持つことにつながり、まさしく「立ち止まって考える」ことの意義を私たちに示している。出口教授の話は、全世界を悩ませる感染症を単に近視眼的に捉えるのではなく、人類の歴史やオンライン化の功罪、あるいは人間の本質的な身体性の議論にまでつながっていた。人文学というと、私たちの生活からは縁遠いもののように思えるが、これからの社会を考えるにあたっては重要なものになるのかもしれない。今回のオンライン講義は8月30日に最終講義の予定だが、ぜひ、1人でも多くの人に触れてもらいたい。