※この記事は2020年08月25日にBLOGOSで公開されたものです

「クラスターフェス」の衝撃

 遠く離れた異国の地で、若き民主活動家が市民社会の自由を求めた結果「国家の安全と秩序を脅かす」罪に問われて逮捕されたちょうどそのころ、わが国では自由を最大限謳歌する者たちが「圧倒的な輝き」を街中に放っていた。

 国民主権党党首の平塚正幸氏(38)が8月9日、東京都渋谷でマスク無着用の「クラスターデモ」を実施。新型コロナウイルス対策への抗議活動で、今回が10回目だという。ネットでは「クラスターフェス」とも呼ばれ、トレンド入りするほど波紋が広がっている。(中略)

 デモ終了後、「ノーマスク・山手線」と題した動画をYouTubeにアップ。「公安委員会の皆さん、今から乗ります!」と宣言し、マスク無着用で仲間たちと車内に乗り込む様子を披露した。動画は11万回以上再生されているが、6,500件もの低評価を記録(10日18時現在)。平塚氏の行動に、辛辣な声が殺到している。

《クラスターフェスって初めて知った時マジで驚いた、自由の権利を一方的に主張して公共の場で自分のみならず周りの人にも迷惑かけるとかテロじゃん普通に》
《クラスターフェスかなんか知らんが、公共機関をジャックしようとしたり関係ない人を巻き込まないで欲しいな》
《ノーマスクで山手線一周とか嫌がらせとしか感じないんだけど、医療従事者がこの中で感染した人の対応するって思うと泣けてくる》

-----
女性自身『「コロナはただの風邪」平塚正幸 クラスターデモ行い批判殺到』(2020年8月10日より引用)
https://jisin.jp/domestic/1883959/

 政治政党「国民主権党」の党首・平塚正幸氏が「コロナはただの風邪」などと主張し、渋谷で「ノーマスクデモ」を敢行したのである。

 当人たちは「クラスターフェス」と別名し、マスクを着けずに密集した人びとがライブ演奏をしたり、パフォーマンスを披露したり、山手線に乗り込んだりと、この社会で保障されている自由をとことんまでエンジョイしたようだ。

 もちろんこれに対する世間からの視線はたいへんに厳しく、国民主権党やフェス参加者には多くの批判の声が寄せられた。なかには彼らを「バイオテロリスト」と、かなり強い言葉で非難する者もあった。彼ら国民主権党のメンバーたちは「感染してもかまわない」と考えているのかもしれないが、しかしそうでない人も彼らのデモ行動によって巻き込まれてしまいかねないことは言うまでもない。こうした非難はたしかに妥当だろう。


「自由」を守るための試練

 「感染希望・ワクチン反対」などと掲げて集まるのは、いうまでもなく愚かな行為でしかない。残念ながらこうした行為は、デモ参加者たちの本来の目的を達成するためになんら貢献しないばかりか、むしろかえって彼らの望まない「自粛」を求める市民社会の規範意識を強化する結果にしかならないだろう。

 しかし自由な国家とは、たとえどれほど愚かでバカげた行為であろうが、それさえも自由のもとで擁護するものだ。マスクなしで集まってバカ騒ぎすることは、あくまで「愚行権」として擁護されるし、また「感染希望、ワクチン反対、新型コロナはただの風邪」――といった言明も、反社会的・反道義的だと憤る人びとの気持ちはわかるが、それでもなお「言論・表現の自由」として擁護されるものだ。

 度し難いほどの愚かさと非社会性がにじみ出た行為だからといって、これをなんらかの公的権限によって抑制してしまうことに市民が合意すれば、国や当局による国民の自由や権利の統制に一定の正当性を付与してしまうことになる。たとえば、香港の民主運動に対する中国政府の弾圧に懸念や批判を表しながら「クラスターフェスのようなバイオテロを国や都がやめさせろ!」などと申し立てるのは一貫性に欠く主張である。

 私たちの社会に存在する「自由」――その価値とこれを守るためのいわば「矜持」が問われるのは「だれもが笑顔になれる快い自由」が眼前に現れたときではなく、いつだって「思わず目をそむけたくなる、反吐の出るような不快きわまりない自由」が現れるときだ。だれにとっても快い自由など、たとえ憲法上で自由がいちいち明記されていなかったとしても、そのような存在の是非があえて問われることはない。

自由はいつのときも、不快で不愉快で不道徳で不見識なものが登場したときに、それを擁護するための覚悟を問われるものだ。したがって、ことばを選ばずに言えば、世間を大いに騒がせ、顰蹙を買った「クラスターフェス」とは、たとえ歴史的パンデミックのなかにあっても「市民社会の自由を守る」という基本的方針を維持することを決めた社会が、当然に支払うべき「必要経費」なのである。これを政治的・法的・行政的に禁じてしまうのであれば、自由で民主的な国家としての名折れである。

「ムラ社会2.0」の誕生

 しかしながら、今回話題になった「クラスターフェス」のような行動は「自由が擁護された社会で、もっとも愚かな人間がそれを行使した様子が世間に可視化されただけ」――という話で片づけられるわけではない。

 なぜなら「クラスターフェス」とは、「自粛・マスク・3密回避」がほとんど社会規範と化した現状に対する、一種の「反動」でもあるからだ。

青森市で7日、東京から帰省した男性の家に、帰省したことを中傷するビラが置かれていたことがわかった。

被害受けた男性(60代)「東京から帰ってこないでくれとかの誹謗(ひぼう)中傷は、ニュースの中でも取り上げられてはいたので、まさか青森でもそういうことが起きてるとは思ってもなかった」

東京から青森市の実家に帰省した男性が7日、家の玄関先に「なんでこの時期に帰省するのか」などと中傷するビラが置かれているのを見つけた。

-----
FNNプライムオンライン『玄関先に“中傷”するビラ 青森の実家に帰省』(2020年8月9日)より引用
https://www.fnn.jp/articles/-/72064

 帰省しただけでまるで犯罪者のような扱いになってしまうような社会――それは本来「自由」が認められた社会の建前とは相反する。

 岩手県ではじめて新型コロナウイルスに感染した人の職場や自宅には、多数の嫌がらせが殺到している。また、ご存知のとおりすでに全国各地では「自粛警察」と称される、相互監視的かつ抑圧的な行動様式が拡がっている。このコロナ・パニックによって拡大する「ムラ社会2.0」とでもいうべき閉塞的な状況に違和感を持っている人は少なくないだろう。

 この炎天下のなか、熱中症になるリスクを引き受けてまでマスクを着けて街を闊歩する人びとは、未知のウイルスから身を守るためではなく、自分自身の社会適応度を守り、「ムラ社会2.0」のターゲットにならないためにそうしているにほかならない。

 新型コロナウイルスの感染が拡大する中、日本人がマスクを着ける動機は、感染が怖いからでも他の人を守るためでもなく「みんなが着けているから」。同志社大の中谷内一也教授(社会心理学)らのチームが11日までに、インターネットで行ったアンケートから、こんな結果をまとめた。(中略)

 「感染すると症状が深刻になる」などの理由と着用頻度との結び付きの強さを解析すると、断トツは「人が着けているから」。「他人の感染防止」はほぼ関係なかった。

-----
共同通信『マスクは「皆が着けているから」日本人、「感染防止」関係なし』(2020年8月11日)より引用
https://www.47news.jp/news/new_type_pneumonia/5122380.html

 うだるような暑さのなか、本心ではすでに人びとはマスクなど付けたくないと思っている。だが「クラスターフェス」に参加するような人びとがいるおかげで「ルール違反者に対する制裁」が一段と厳しくなってしまうことが予感される。結果的に、だれもが否応なく、不要な場面ですらマスクを手放せなくなる。

 皮肉なことだが、いま街を行き交う人びとのほぼ全員の口元を覆っているのは、ウイルスから身を守る衛生用品ではなく、市民社会の制裁から身を守る社会性アイテムである。

コロナが生んだ「双子の怪物」

 「ムラ社会2.0」は、いわゆる「ウィズコロナ社会」の秩序に過剰適応した人びとの姿である。自粛していない人や県外からの訪問者に嫌がらせをする「自粛警察」や、マスクをしていない人を街で見かけると攻撃的に詰問する「マスク自警団」のような姿で、「ムラ社会2.0」の影響力は拡大している。一方の「クラスターフェス」は、同調圧力のもとで自由を抑圧する方向に先鋭化していく社会に猛反発する人びとの怒りが具現化した姿だといえるだろう。

 いわば両者は「ウィズコロナ」という時代が生んだ、鏡合わせの双子の怪物なのである。

 テレビメディアで連日のように「今日の感染者はn人でした」と伝えられ、そのたびに人びとは恐怖に駆られ規範意識を強めていく。じわじわと強化された規範意識は「ムラ社会2.0」の影響を日本全国に拡大させる。それが「さらに大きなクラスターフェス」という反動を誘起させていく。「さらに大きなクラスターフェス」は「ムラ社会2.0」をより強化する栄養を供給する――両者は思想的には対極に位置しながら、その行動原理は同じであるため、相互依存的にそのプレゼンスを強め、この社会で衝突を繰り返していくことになるだろう。

 「ムラ社会2.0」と「クラスターフェス」は、私たちがこの社会でこれまで当たり前のように享受してきた自由の尊さと、そしてそれが時として多くの人にとって望ましくない姿で顕在化することを再認識させてくれる。

 ウィズコロナ社会を迎えた世界では「強い政府」「強いリーダーシップ」に対する再評価が起こっている。コロナ以前の時代、私たちにとってほとんど無条件で「善い」ものとされてきた「自由」という概念を、改めて多角的に見る機会がいま訪れているのかもしれない。