その犠牲を忘れてはならない 「日本に勝った日」を思い出すイギリスの8月15日 - 小林恭子
※この記事は2020年08月15日にBLOGOSで公開されたものです
8月15日、日本は75回目の終戦記念日を迎えた。
日本武道館での全国戦没者追悼式がテレビやインターネットで中継され、各地で正午から1分間の黙とうが行われる。戦時中に亡くなった方を追悼し、二度と戦争を起こしてはならないと誓う厳かな日だ。
第二次世界大戦(1939-45年)では、アメリカ、イギリス、フランス、中国、ソ連などが連合国側、ドイツ、イタリア、日本などが枢軸国側として戦い、世界中で5000万人から7000万人(軍人及び民間人の総合)が亡くなったといわれている。日本では約300万人が命を落とした。
日本で8月15日が終戦日と呼ばれる由来は、1945年8月15日正午、昭和天皇が日本国民に向けて戦争の終了(前日、「ポツダム宣言」を受諾)を放送を通して伝えたことによる。ポツダム宣言は軍国主義の除去、武装解除、日本の民主化や連合国軍(米英など)による占領などを規定した。
正式な降伏は日本側と連合国側が降伏文書に調印した9月2日であり、第二次大戦はこの日をもって終了する。
「日本に勝った日」として8月15日に行事が行われるイギリス
そこで、9月2日、あるいは9月3日を「終戦日」とする国(アメリカは2日、中国は3日など)がある一方で、筆者が住むイギリス、オランダ、オーストラリアなどは日本と同じく8月15日だ。
イギリスでは、この日を「対日戦勝記念日(Victory over Japan Day=VJ Day)」と呼んでいる。
欧州での戦争終結は5月8日で、これはドイツが無条件降伏を受け入れた日である。こちらの方は「欧州戦勝記念日(Victory in Europe Day=VE Day)」と呼ばれている。
欧州戦勝記念日と比べると、対日戦勝記念日の方は特定の国への勝利を祝う名称となっており、しかもそれが日本であるため、日本人である自分にとっては少々居心地が悪い思いがする。
対日戦で戦い、亡くなった数万人にも及ぶ兵士に敬意を表す日
イギリスでは、政府が対日戦勝記念日用の特設サイトを設けている。
ウェブサイトによると、この日は「事実上、第二次大戦が終結した日」。
5月8日、欧州での戦争は終わったもののアジア太平洋地域では戦闘が続き、「8月15日に日本が降伏したことで、事実上、第二次大戦が終結した」。
「アジア太平洋地域での戦闘はハワイからインド北東部に広がる地域で行われた。イギリスや英連邦出身者となる兵士が中心となった『第14隊』では40カ国語が話され、すべての主要宗教を反映する、史上最も多様な人員となった」という。
対日戦勝記念日の追悼対象は「イギリスがその兵役と犠牲に感謝する、極東地域で戦った軍人たち」だ。
この日は「対日戦で戦い、亡くなった数万人にも及ぶ兵士に敬意を表するものである。この中には日本軍の捕虜になった兵士も含まれる」。
サイトには、戦争捕虜になった人を含む数人の兵士やその遺族の物語が写真付きでつづられている。
対日戦での戦死者は2万9968人、戦争捕虜は1万2433人
慈善組織「英国在郷軍人会」のウェブサイトに掲載された、対日戦の説明を見てみよう。
▽英国在郷軍人会のウェブサイト
(1942年、イギリスの支配下にあった)「マラヤ(マレー半島南部)とシンガポールが降伏し、これは第二次大戦中のイギリス側の最大の敗退となった。約9000人のイギリス、インド、英連邦出身者による兵士が戦死し、約13万人が捕虜となった」
「英軍、英連邦軍、ほか連合軍の兵士たちは捕虜として人間的に取り扱われるものと思っていたため、日本軍による扱いに衝撃受け、怒りを感じた」
「日本は捕虜を戦争遂行のための使い捨ての労働力と見なし、道路や橋建設やそのほかの日本のプロジェクトで働かせることで、数千人が命を落とした」
「最も悪名高いのが(当時の)ビルマとタイをつなぐ鉄道、通称『死の鉄道』(筆者注:「泰緬(たいめん)鉄道」のこと)だった。1943年10月に完成するまでに、連合国側の捕虜1万5000人、現地の労働者8万人が亡くなった」(筆者注:数には諸説がある)
「労働環境、厳しい天候、適切な食料や薬の不足によって、コレラ、赤痢、マラリアで数千人規模が命を落とした」(以上、カッコ内は筆者による補足)。
サイトによると対日戦ではイギリス軍の兵士約9万人が死亡・負傷・行方不明・捕虜となった。この中で戦死者は2万9968人、戦争捕虜は1万2433人だったという。
戦争が終わっても、兵士たちはすぐには家族の元に戻れなかった。数百万人に上るイギリス及び英連邦出身の兵士は数か月、あるいは数年かけてようやく、家族に会うことができたと伝えられる。
「犠牲を忘れてはならない」 政府がSNSで戦時体験を発信するよう呼びかけ
イギリス政府は、対日戦勝記念日に向けて国民一人一人が記念行事に参加することを奨励している。
例えば
・帝国戦争博物館、国立公文書館、国立陸軍博物館のウェブサイトから第二次大戦の歴史を学ぶ。
・大戦の経験をデジタル・文化・メディア・スポーツ省の電子メールアドレスに送る。
・ソーシャルメディア上で自分や家族の体験や追悼のメッセージなどをハッシュタグ「#VJDay75」を付けて流す。
・国内にある約9万の戦争追悼記念碑を探し、訪れる。
・帝国戦争博物館や在郷軍人会などのウェブサイトからオンライン・イベントに参加する、など。
教材として学ぶ際のURLがあり、旗やポスターの作成、あるいはソーシャルメディアで情報発信をする際の対日戦勝記念日75回目のロゴ、子供用には塗り絵がダウンロードできるようにもなっている。
当日はチャールズ皇太子が出席する追悼式がイングランド地方中部リッチフィールドの国立記念植物園で開催され、午前11時、1分間の黙とう時間が設けられる。
この模様はBBCで生中継されるため、テレビの前で多くの人が黙とうに参加する。国を挙げての大規模なイベントである。
第二次大戦戦死者(兵士約38万人、民間人約7万人といわれている)が出たこと、戦争捕虜になった人がいたことやその経験は痛みであり、悲しみではあるが、その一方で、多大な犠牲を払った上で今のイギリスがある。イギリス国民にとって、先の大戦は勝利で終わったことで、誇りにもなっている。
イギリスでは、「その犠牲を忘れてはならない」という努力が続いていると言えよう。
75年前の8月6日広島に、そして9日には長崎に原子爆弾が落とされた。今年8月5日、BBCは原爆の恐ろしさを伝えるドラマを放送した。ドキュメンタリーのようなドラマ自体は以前に制作されたものであったが、爆弾を投下したアメリカの爆撃兵たちや被爆者の生の声を挟み込み、どちらの側にも公平な、落ち着いた作品だった。
筆者は8月上旬、原爆投下を扱ったポッドキャスト番組やラジオの番組を聞いてみたが、「戦争を終結させるために原爆投下が必要だった」という見方には、現在では疑問符がついていることを紹介し、こちらもバランスが取れた内容になっていたように思う。
長い年月を経て、イギリス人が同じ人間としてかつての敵国で生きた日本の市民の痛みや苦しみを自分事のように感じている様子が伝わってきた。
11月にすべての戦争の犠牲者を追悼する「リメンバランス・サンデー」
イギリスで最も大規模な追悼行事が行われるのは、8月15日ではなく、11月だ。
毎年、11月第2日曜日(今年は11月8日)に行われる「リメンバランス・サンデー(「追悼する日曜日」)である。
この日は当初、第一次世界大戦(1914-18年)の戦死者を追悼する日であった。1918年11月11日午前11時、敗戦国ドイツが勝者である連合国軍側と休戦協定を結んだことが由来である。
現在では第二次大戦、さらにはアフガニスタンやイラクにおける戦死者など、英国が関与した様々な戦争で命を落とした兵士を追悼する日となっている。
秋の気配が深まる10月頃、多くの人が赤いヒナゲシのブローチを洋服の襟につけるようになる。欧州では赤いヒナゲシというと戦争が連想されるようになったのは、第一次大戦後、戦闘地の一つとなったフランス北部やフランダース地方(オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域)に赤いヒナゲシが育ってきたことによるという。
ブローチの販売は在郷軍人会による募金活動の一つにもなっている。
リメンバランス・サンデーには、毎年、ロンドンの官庁街にある、戦死者の慰霊碑前で追悼式典が行われる。一昨年まではエリザベス女王、去年からはチャールズ皇太子に加え、首相、閣僚、各政党党首、英連邦や軍の代表者、現役及び退役軍人などが出席している。国民はBBCの生中継番組でその様子を見るか、地元の記念碑前で黙とうする。
戦争を複眼的に理解するために、各国の「終戦」の意味を知ることが大切
筆者は、毎年11月のリメンバランス・サンデーを地域の人とともに近くの記念碑に集まり、黙とうを捧げることで過ごしてきた。
8月15日はこれまで国外にいることが多く、今年は久しぶりにイギリスでの参加となる。「対日勝利」と名がついた追悼式に地域の人と一緒に出るのはどうかなと思ったりする。今年はテレビ中継を見ることになるかもしれない。
時差の違いはあるものの、まったく同じ日に戦争で勝利した側(イギリス)と敗退した側(日本)で追悼行事が行われている。
戦争を複眼的に理解するためにも、二度と発生させないためにも、ほかの国でこの日がどんな意味を持ち、どのように追悼がされているかを知ることは大切ではないかと思う。