「八月や六日九日(むいかここのか)十五日」戦争を体験した毒蝮三太夫が語り継ぐ生の声 - 毒蝮三太夫
※この記事は2020年08月15日にBLOGOSで公開されたものです
この時期はさ、永六輔さんがいつも言ってたあの言葉を思い出すよ。
『八月や六日九日(むいかここのか)十五日』
8月6日に広島、9日に長崎に原爆を落とされ、そして15日に日本は敗戦、ボロボロになってようやく終戦を迎えた・・・。昭和20年8月はそういう苦難の日の連続だった。この歴史を絶対に忘れてはならないという警句だ。この句、ここで一年前も紹介したっけ。
こうして夏が来るたびに戦争を思い出して語り継ぐのは、戦争を経験した者のつとめであり使命だと思ってる。俺は昭和11年(1936年)生まれで現在84歳。終戦を迎えた昭和20年(1945年)に9歳だった。昭和20年5月24日の城南大空襲に遭って必死に逃げ回った。あんな思いは二度としたくないよ。
戦争が起きると日常がどう変わるか、どれだけ悲惨なことになるか、俺はそれを自分の声で語り継ぐことに意味があると思ってる。記録や資料ももちろん重要。だけど経験者が直に語る言葉には、人から人へとダイレクトに伝わるチカラが備わっていると思う。
年々、戦争を経験した世代は高齢化して亡くなっていく。経験者の生の声が減っていくことが居たたまれないけど、俺は語れる限り語っていくよ。
米紙が掲載した「原爆投下は必要なかった」
今年は戦後75年という節目の年だ。まずはこの75年間、日本が戦争に巻き込まれなかったこと、どうあれ平和であったこと、それはとてもありがたいことだとつくづく思う。
節目の年ってことで、これまで出てこなかった資料や証言が出てくるってあるよ。ずっと仕舞いこんできたものでも、それを墓場まで持ってっていいのか、後世のために遺しておくべきじゃないかって良心の呵責が働くんだ。
そんなニュースのひとつに、広島・長崎の原爆投下に関して、本当は「必要なかった」ことだったってアメリカの新聞に掲載されたってのがあったよね。ちょっと編集部、紹介してみて。
編集部「ロサンゼルス・タイムズ紙(8/5)に、『米国は核時代の幕を開ける必要はなかった』と題した、歴史家のガー・アルペロビッツ氏と、ジョージメイソン大教授のマーティン・シャーウィン氏による共同寄稿が掲載されました。アメリカ国内では日本への原爆投下という歴史に対して、あれは戦争終結に必要であり、原爆投下によって多くのアメリカ兵の命を救った、という主張が主流ですが、今回の歴史家による寄稿では、当時のトルーマン大統領は原爆を使わなくても日本が近く降伏すると認識していたことは証明済みである、という内容です。歴史認識をじっくりと改める必要があるのでは、というものです」
原爆を日本に落としたアメリカは「あれは必要だった」って言い方をずっとしてきた。米国民に対してもそういう歴史教育を長く続けているよね。「日本を降伏させて戦争を終わらせ、アメリカ兵の犠牲を増やさないために必要だった」って話なんだけど、それはやはりオモテ向きの言い分だよ。
ウラから言えば、「すでに日本の敗戦は決定的だが、開発した新兵器である原爆を実際に試してみたい。その威力を世界に見せつけ、アメリカの軍事力を誇示しておきたい」ってことがあったはずだ。
戦時中、ドイツも日本も原子爆弾の研究に取り組んでいたんだよな。結局アメリカが世界に先駆けていち早く開発し、実験も成功させた。そうなれば次は実戦で試したい・・・となるよ。新しい武器って出来たら使いたくなるものなんだ。だって使うために延々と時間と資金を注ぎ込んできたわけで、それを使いたいと思ってしまうのは宿命みたいなもんだよ。
その中で、1945年7月26日、米英中は日本にポツダム宣言を出した。日本に無条件降伏しろと突き付けた。戦争終結に向かう大きな一手を打った。すでにこの時点で連合国側のスタンスはいかにして終戦させるかという状況だった。だからポツダム宣言を出した。
なのにアメリカは、ポツダム宣言から12日後に広島、15日後に長崎に原爆を落としたわけだ。
結局、トルーマン大統領はアメリカが開発した新兵器である原子爆弾を試したかったんだよ。終戦後、すぐに米軍は広島・長崎に入って原爆の効果を現地調査している。新兵器がどれだけの威力だったか、そのデータをいち早く収集したかった。世界に先駆けて原爆を使うことで、世界にアメリカの軍事力を誇示し、戦後の覇権をより強めるため原爆を投下をしたんだよ。
「抑止力」を謳っても使いたくなるのが武器・兵器
これに通じる話なんだけど、ちょっと話は変わって、幕末に新選組がどうして強かったか? 幕府に反目する尊王攘夷運動を抑えるための浪士を募った。お上公認で武士ではない者を武士の格にとり立てる話だ。要は兵隊集めだ。戦力になれば誰でも良かったわけだ。そこに、これは出世のチャンスだってんで、ワーッと集まった。
俺も八王子に行った時、新選組の末裔って人に会ったことある。普段は農家だったりするんだけど、それだけでなく大きな農家は青空道場みたいのを持っててさ、土地の若いもんが土の上で木刀を振り回したりしてね。そこに幕府から「浪士募集」の御触れが出たから、我も我もって若者が詰めかけた。最初の募集で200人ぐらい集まったってね。
それから京都に移って、段々と残ったメンバーが新選組になっていった。木刀じゃなくて帯刀だから、いざとなったら薩長相手に刀を抜いて斬っていい。お上公認。それで給金も出る。職業兵であり傭兵だ。幕府の後ろ盾があるから鼻息も荒い。これがどんどん先鋭化していく。任務があって、刀を抜いて、相手を斬って、功を立てれば格も上がる。つまり斬れば斬るほど出世する。となれば、腰に差した刀を使いたがるよ。
武器や兵器を「抑止力」という見方で捉える面もあるよ。だけど武器や兵器って、持てば使いたくなるんだよ。試してみたい、使ってみたい、そういう気持ちを掻き立てる魔力みたいなものがあるんだ。アメリカが使った原爆も、新選組で農家から出てきた若者が腰に差した刀も、そういう魔力を帯びてたってことだ。
そして、それらを使う時は「試したい、使いたい」という本心を隠すため、必ず「正当防衛」を声高に出すんだよな・・・。
ポツダム宣言の返事を先延ばしにした軍部中枢の失態
あらためて広島・長崎に投下された原爆の話だけど、これって、日本側にも大きな問題があると思う。ポツダム宣言を受けた時点で敗戦は決定的だった。いや、もっと前、ドイツが降伏した6月だとか、さらにその前の東京大空襲で10万人の命を首都で奪われた3月だとか、戦争を終わらせる判断を実行する機会はあったんだ。だけど日本の軍部中枢はそれをことごとく失して、結論を先延ばしにしてしまった。
一億総火の玉なんてスローガンじゃ勝てないよな。もはや7月26日にポツダム宣言を受けた時点で、どんなにあがいても決着は明白で、そこから条件闘争に持ち込める芽もなかった。なのに、陸軍だ海軍だ派閥だナンダって、ポツダム宣言の受諾までに時間を浪費してしまい決断が遅れた。返事を先延ばしにしてしまった。
歴史に「もしも」は無いけど、ポツダム宣言を出されてもっと速やかに受諾を決断できていれば、広島も長崎も原爆を経験せずに済んでいた。だから、当時の日本は「返事が遅い」という失態で、原爆投下のチャンスをアメリカに与えてしまった。結果として日本の軍部中枢が招いた原爆という見方もあるわけだ。
あと、8月15日の受諾をもっと延ばしていたら、アメリカは第3、第4の原爆を計画していたって話もあるんだよな。返事のタイミングで歴史がすさまじく変わる。まったく恐ろしいことだよ。
日本っていうか日本人の性格がそうなのか、「返事」の対処で、歴史上に何度もピンチを招いているよ。聖徳太子の時代には隋の帝と国書のやりとりをして、その返書で日本から「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す」って書いたら、言い方が無礼だってモメた。鎌倉時代にはモンゴルから6回も使者が来て、要はモンゴル帝国の手下になれって話なんだけど、ここから結局、元寇につながって攻められた。幕末の黒船来航も開港と条約の「返事」を迫られたわけだ。
それぞれに剣呑な話ではあるけど、返事って仕方次第で状況を大きく左右するよね。
これね、立川談志がよく言ってたんだけど「お詫びとお礼は早いほうがいい」って。電話でも手紙でもなんでもいいから早くしろって。なるほどなって思って、俺はずっとそれを守ってる。
ほら、返事をするってことはそこに相手があることだ。相手は自分と同じ「心持ち」では動いてない。時間が経つにつれて人って余計なことを考えたりするもんだよ。「あいつ、あんなことしたくせにちっとも謝ってこないな、ああ、ムカムカしてきた、だったらこっちにも考えがある」とか、「あいつ、良くしてやったのにちっとも礼をしてこないな、ああ、ムカムカしてきた、だったらこっちにも考えがある」なんてね。
自分だけの「心持ち」で「あの返事はまだ先でいいや」って判断しても、相手の気持ちはそこに合わせてくれないんだ。そんなふうに個人と個人の間の返事だってモメごとになりやすいんだから、まして国と国の間の返事であればもっと難しいよ。先延ばしたことで取り返しのつかない事態になってしまうということだ。
じゃあ、どうすればいい? 歴史に学ぶ、過去のあやまちから学ぶ、それを肝に銘じて今に活かす。それ以外ないんだよ。戦後75年、戦争を見つめ直すことは必ず今に通じて、今に活かせる。だから忘れないようにもう一回言っとくよ。
『八月や六日九日(むいかここのか)十五日』
(取材構成:松田健次)