コラム:恐怖と痛みをはらむ戦争の「におい」 長崎と家族が教えてくれた暴力性 【長崎原爆の日】 - 清水駿貴
※この記事は2020年08月09日にBLOGOSで公開されたものです
小学2年生から4年生のころ、私は長崎県内の川棚町という地域で暮らしていた。西暦でいうと1998~2000年のころだ。
長崎では「原爆の日」である8月9日を夏休み中の登校日として定め、県内の小中学生や高校生らはその日、学校に足を運ぶ。私も毎年、片道50分ほどかかる急な坂道を汗水垂らしながら歩き、学校で黙祷。平和学習を受けた。
01年、親の仕事の都合で長崎を離れ、私は生まれ故郷である福岡県に戻ってきたが、そこでは9日に登校することもなく、原爆や戦争の話をおじいさん、おばあさんから聞く機会もなかった。
ふたつ隣の県でも戦争に対する教育はこうも違うのか、と当時小学生の私が考えるわけもなかったが、長崎の平和学習から受けた影響はとても大きなものだったと、大人になったいま思う。
戦争は痛みを伴う暴力的なものだ。その思いが私のなかに刻まれている。
戦争の残酷さ 再現アニメの恐怖で眠れなくなった下級生
9日の登校日、原爆が長崎に投下された午前11時02分に合わせて鳴るサイレンとともに私たちは教室で黙祷を捧げた。
その後、戦時中の資料などを読んだり、体育館に集まり戦争経験者の話を聞いたりした。
その平和学習で私の在学中、印象深い出来事があった。
当時、平和学習のひとつとして視聴覚室で被爆者や戦争経験者の体験談をもとにしたアニメを見るという授業があった。沖縄から学童を疎開輸送中にアメリカ海軍からの潜水艦攻撃を受け沈没し、800人以上の子どもが犠牲になった貨物船「対馬丸」の生存者の話をもとに制作されたアニメは、あまりに生々しく、いまでも私の脳裏に戦争の恐ろしさを象徴する話のひとつとしてこびりついている。
次の年、教壇に立つ担任の先生は私たちに「アニメを見たくない人は見なくてもいい」と告げた。これまでなかったことだ。前年の平和学習でアニメを見た下級生が恐怖で夜眠れなくなってしまった。親は学校に相談し、学校側は「子どもたちに無理をさせたらいかん」と判断した。先生は私たちに丁寧に説明した。「始まってからも、怖かったり気分が悪くなったりしたら、すぐに部屋を出てよかけんね」。視聴覚室に入ってから、例年のようにプロジェクター投射に合わせて部屋が暗くなることはなかった。
私は「そんなものか」と前年よりも部屋が明るいために映像が薄くなったスクリーン上のアニメを見ていたが、いま考えると平和学習の難しさにその時の先生や学校関係者が直面している場面に出くわしていたのではないだろうか。
戦争には死があり、残酷さがあり、痛みがある。平和学習はその記憶を忘れずに、いまある命や日常の大切さを考えるための時間だが、その過程で子どもが恐怖を感じてしまうことも事実だ。
恐ろしいものを恐ろしいものとして教えなければならない平和学習のなかで、どういう伝えかたが必要とされるのか。この歳になってあらためて戦争にまつわる自分の記憶を辿っていくなかで、ようやくその疑問が湧き、まとまらぬものの文章にして考えてみようとこのコラムを書いている。
“戦争ドラマ”を決して見ようとしなかった妹
私の家族もまた平和学習と恐怖のバランスで悩んでいた。
8月15日の終戦の日に合わせて、テレビでは戦争をテーマにしたスペシャルドラマや映画が放映される。私が小学生のころ、幼い妹は頑なにそれらを見ようとしなかった。
家族の他の人間が見ているとテレビのある部屋を出て行ったし、機会があればすぐにチャンネルを変えた。母が「大事なことやけん、ちゃんと見らんといかんよ」とよく諭していたことを覚えている。それに対して妹は「怖いから」と拒絶を続けた。
何年間か母と妹のそういったやりとりは続いたように記憶しているが、ある時から母は戦争ドラマを見るように妹を説得することはなくなった。
なぜか。後で聞いたことだが、母は相談した知人から「恐怖を感じているなら、ドラマが伝えようとしている”戦争の恐ろしさ”というひとつのメッセージをすでに肌身に感じているということ。娘は大切なことをきちんと知っているのだから無理に見せる必要はない」と言われたのだそうだ。
母にとってはその言葉が「戦争・平和を学ぶ大切さ」と「娘の戦争ドラマに対する拒絶」の間に横たわっていたジレンマを解決する答えとなった。
帰省するとNetflixのスプラッター映画を平気な顔で見ている妹がいる。だが、大人になったいまでも、彼女は戦争映画を「怖い」と話す。
戦争は美談じゃない 「におい」にまつわる大叔父の記憶
私自身にも子どもの時に感じ、いまでも染み付いて離れない戦争にまつわる印象がある。
長崎から福岡に移った翌々年、小学6年生の私は夏休みの自由研究として身内から戦争時の体験を聞き、それをレポートとしてまとめることにした。何をきっかけにそうしようと思ったのかは覚えていない。長崎での3年間の経験から夏は戦争について考える時期という思いがあったのだろうか。担任から、その年は「戦争をテーマに」という指示があったのかもしれないが。
とにかく私は録音機能付きのラジカセを片手に、まず祖父母の家を訪ねた。通りがかりの兵隊が、道端で遊んでいた幼い祖父の頭を撫でてくれたこと、シラミだらけの藁の上で友達と一緒に眠った祖母の話。話を聞きながら、その時代をいま目の前にいる家族が経験しているという事実に驚いた。
なにより強烈な印象を受けたのは、隣に住む大叔父(父方の祖父の兄)の話だった。1945年6月19日にあった福岡大空襲の話だ。
この日、米軍機が福岡に焼夷弾を落とし、街は焼けた。新聞報道によると死者902人、行方不明者244人に上った。
大叔父は覚えていることをありのまま小学生の私に語ってくれたと思う。焼け焦げた街の様子から始まり、目の前に落ちた焼夷弾が不発で助かったこと、避難しようとして逃げ込んだ銀行の建物内に多くの遺体が並んでいたことなどを話してくれた。「ぜんぶ焼けとって、ものすごいにおいがした。耐えきらんやった」。その言葉は私のなかに深く突き刺さった。
おそらく録音したテープを聞き直すことはなかったと思う。15年以上前に聞いた話の断片をいまでも覚えている。当時、ほとんど全ての話を、聞いてすぐに紙の上に書き出した。図鑑で調べたB29のイラストなどを加えて大きな模造紙にまとめ、休み明けに担任に手渡した。
家族の戦争体験を録音したテープもそのレポートもいまは残っていない。だが、「ものすごいにおいがした」と話す大叔父の声はいまも頭のなかで響く。
まれに戦時中を扱った作品のなかで、ドラマチックに戦争を描いているものを目にすることがある。それが良いか悪いかではなく、少しだけ違和感を抱く。
私のなかで戦争というのは夜眠れなくなるほどの暴力性や、妹が抱いていた恐怖、大叔父が嗅いだ遺体のにおいを孕む残酷なものだからだ。
そしてそれは、長崎の先生や戦争経験者の方、家族といった周囲の大人たちが小学生の私に教えてくれた「戦争を恐怖する」というとても大切な記憶だと思っている。
だからこそ、その恐怖と違和感を大切にしたい。今年、終戦から75年。戦争を経験していない世代の私たちが、これからもその記憶を引き継いでいくために「どう伝えるべきか」を真剣に考えていかないといけないと思う。