家族だから「いびつ」になる 紗倉まなが考えるこれからの家族の風景 - 村上 隆則
※この記事は2020年07月02日にBLOGOSで公開されたものです
先ごろ上梓された紗倉まなの小説、『春、死なん』には、2つの家族の物語が収められている。ひとつは二世帯住宅で暮らす家族に訪れる不和を描いた表題作「春、死なん」、もうひとつは主人公とその母親との関係性を描いた「ははばなれ」。今回だけでなく、紗倉の小説には、これまでも家族をテーマにしたものが多い。
なぜ、紗倉まなは「家族」に惹かれ続けるのか。話を聞いた。
よかれと思ったことが毒に 家族のいびつさ描く
--表題作の「春、死なん」では二世帯住宅に住まう家族の不和が描かれていますが、なぜこのテーマを選んだのでしょうか
「春、死なん」では、老後の親を自分の家に招いて世話をする二世帯住宅が舞台です。一見、親孝行に見えますが、この二世帯住宅を建てた老夫婦の息子は世間の目を気にするばかりで、実は老夫婦のことを家族の中で一番わかっていません。
子どもでも、本当に親が求めていることがわからない、理解できないというのは息苦しい。そこには正解はないし、自分の一番の理解者は他人だということもある。社会一般的に理想とされているものは、決して全員に適用されるものではないと思っていました。
--「自分は親の気持ちがわかっている」という自信がある人ばかりではないと思うので、なかなか堪える物語のように思いました
良かれと思ったことが相手にとっては毒に満ちたものだったというのは家族間でもよく起こる問題だと思います。そういう、本当にお互いを理解できているのかという疑問は常にあるし、わかっていて当然という慢心や、そこからくる「裏切られた」という思いが生む家族のいびつさは意識的に書いたところです。
紗倉まなが「家族」に惹かれる理由
--紗倉さんはこれまでの作品でも家族について書かれていることが多いのですが、家族というテーマに着目する理由はあるのでしょうか
もともと家族を軸にした小説を読むのが好きだったんですが、私自身は寮生活を送っていたり、母子家庭だったりというのもあって家族と向き合う時間は長い方ではありませんでした。そのぶん、大人になってから家族に対する思い入れが大きくなってきたように感じています。
家族というテーマが、自分の中である種の心の拠り所になっている部分もあるので、自然とここに行き着いたのかもしれません。
--心の拠り所になっているというのは、なぜだと思いますか
自分の気質だったり、特性だったり、自分自身を形成づけているものが家族に由来するものだと実感することが多いんです。
たとえば自分が今こういうふうに考えたり、違和感を抱くことも、今まで過ごしてきた環境によるものも多いけれど、やっぱりどこか、ここの部分は母親と似ているなとか、父親もそういうこと言ってたなとかふと思い出すことがあります。自分自身のことを考えるときに、絶対にその背景に家族がいる。
「家族」は自分をかたどる要素
--紗倉さんのご家庭はどのようなものでしたか
穏やかな会話は殆どなく、常に両親の喧嘩で賑わっている家庭でした。
そういう家庭にあって、一人の時間を大切にすることが昔から多かったんです。一人っ子なのも大きかったかもしれません。
--その環境について、紗倉さん自身はどんな風に捉えていましたか
学生時代は、親から離れたい気持ちのほうが大きかったですね。家族を大切に思うことも少なかったかもしれません。でも最近は、連絡を取る頻度も増えています。
人は、まず家族という組織に入り、その後、学校や会社といったより大きな組織に入っていく。属する場所、かかわる人がどんどん大きくなっていったとしても、一番初めのコミュニティである家族で培った言語や考え方は自分をかたどる要素や源になるものではないかと感じます。
--そこで培われた感覚が作品にも反映されているんですね
そうですね。いわゆる家父長制的な、父親が大黒柱で家のリーダーであるというのが一般的な家族の形なのかもしれませんが、うちの場合はリーダーが母親だったので、まずそこから違っていた。いろいろ「型どおり」ではないことが多かったんです。
家族の役割と「個の尊重」
--作中に出てくる家族は二世帯住宅の設定ですが、家族構成も大きな要因かもしれません
家族の人数が多いと、賑やかさで乗り切れる部分があるように思います。私は3人家族でしたが、3人だと、どうしても子どもが父親と母親の仲介をせざるを得なかったりして苦しいところがありました。
--そうした家族の中での役割みたいなものについてはどのように考えていますか
望んでいる、望んでいないにかかわらず、家族という組織の中で強いられたり古くから引き継がれたりしてきた役割ですよね。「自分は妻という立場なんだから家事を頑張らないといけない」とか。そういった役割でしか人を見ないのではなく、ひとりひとり名前のある個人であるという個の尊重といったことは、ずっと考えています。
--今、そうした役割が男女入れ替わったり、あるいはそもそもシェアするような形になったりと変化してきています
たとえば、今までは家事は主に女性の役割でしたが、これからは男性もやるべきだという意見が出てきて、今度は家事をやらない男性は良くないといった風潮が強まるのも、またそれは違うのかなと思っています。それぞれがやっている役割の重さをきちんと理解した上で、どこを自分は補足するべきか、手伝えるかということを考える余白があるといいのではと思います。もしくは、自分がその役割を望んでいないものだとしたら、望んでいる役割ができるような環境が整えられるといいですよね。
理解得るための「会話」 家族だからおろそかに
--そうした環境を整えるために必要なことはなんだと思いますか
ありきたりですが、やはり会話をすることかなと思います。
自分の意見や不満を表に出すことが一般的になってきたからこそ、女性が家事について不満を訴えてもよくあることだと流されてしまったり、男性が仕事の不満を漏らしても、「働けるだけいいじゃないか。私なんてワンオペで家事・育児をやっていて、外に出られるだけ羨ましい」と贅沢な不満に聞こえて、相手の辛さを受け入れられなかったりするかもしれない。悩みをシェアするのって難しいですよね。
まずは、相手が理解できるようにちゃんと話すことからなのかなと考えています。私自身は結婚の経験がないので、パートナーとのことは想像になってしまいますが、両親を見ていて、いつまで経っても理解できない境界線で論争してるなと思うことはありました。
--理解してほしい、という期待が大きすぎるというか
そういう過分な期待みたいなものは感じます。根底には、母親だから、父親だから、夫だから、妻だからといったある種の決めつけがあるのかもしれません。けれどそういった役割の押し付けも、どこまでがそうなのか腹を割って話し合わないとわかりにくい部分ですよね。
--話す事で、自分が知らなかった相手の考えにも気付けるかもしれませんね
家族って、血が繋がっていたり、長く一緒に暮らしていたりする特別な存在ですが、結局は独立したいち個人の集まりだと思うんです。でも、それに気付くことはなかなか難しい。長く同じ環境で過ごすことで、似たような価値観になりやすい部分はあるでしょうが、考えが全て同じにはならない。私も親に対して「それってどうなんだろう」と思うことはありました。ですから、家族を一人の人間として切り離して見ることができるかというのも、お互いを理解するためにおろそかにしてはいけない部分なのかなと感じています。
「春、死なん」には、実の息子ではなく、血がつながってないお嫁さんのほうが姑の気持ちを理解できていたというシーンがあるんですが、そこは希望の象徴でもあるんです。赤の他人に理解してもらえることは必ずある。だからこそ、きちんと言葉にして伝えていきたいし、理解してもらうことを諦めないでほしいなと思います。
春、死なん (紗倉 まな)- Amazon.co.jp新型コロナで増えた「家族を気にかける」機会
--新型コロナで長時間家にいる状況が続いていますが、そういうなかで家族のあり方はどんなふうに変わってきたと思いますか
もちろん大変なことですが、こういう大きな出来事は互いの存在を確認し合える機会でもあるなと感じています。これまでは、家が近くてもあまり帰省しなかったり、連絡を取らなかったりしていた人たちが、家族や友人を気にかけ、さまざまな手段を試している。
私も母親とリモートでお互いの顔を見ながら話す機会が増えてきています。コミュニケーションの頻度が上がり、声をかけられるきっかけが増えたという感覚です。
--離れて暮らすからこそ、気になるという部分はありますね
「どう、大丈夫?」と安否確認も兼ねて連絡を取ってみる。いまはもし自分がウイルスを持っていたらと考えると、気軽に帰省もできない。だからこそ、さまざまなツールで顔を見て話が出来るのは、安心感のあることだと思うんです。こういう会話の仕方が増えると、心の豊かさは変わってくるのかもしれません。コロナウイルスが落ち着いたらそこで終わりではなく、このような気軽で、頻度が高くて、腹を割って話せるようなコミュニケーションが継続していってほしいですね。
--最近は仕事や家庭などの優先順位にも変化が起きているように感じます
残業続きで子供が起きているうちには家に帰って来られなかったお父さんとか、家庭にいる時間が短かった人たちが、長く家にいることができた。そこで見直せたこと、再発見できたことはあるのかもしれませんね。
前向きに捉えるならば、ある種の負担や苦労を家族全体、社会全体でシェアできるのはなかなかないことなので、共通言語が増えたように感じています。そこからまた、個々の考えを共有できるようになるといいなと思っています。
プロフィール
紗倉まな(さくら・まな)
1993年千葉県生まれ。工業高等専門学校在学中の2012年にSODクリエイトの専属女優としてAVデビュー。15年にはスカパー! アダルト放送大賞で史上初の三冠を達成する。著書に小説『最低。』『凹凸』(いずれもKADOKAWA)、エッセイ集『高専生だった私が出会った世界でたった一つの天職』(宝島社)『働くおっぱい』(KADOKAWA)スタイルブック『MANA』(サイゾー)がある。