※この記事は2020年07月01日にBLOGOSで公開されたものです

障害者の両親から生まれてきたぼくは、“ふつうのしあわせ”なんて手にできないんだ――。

思春期のぼくは、いつもそう思い込んでいた。それは呪いとして、ぼくの体を蝕んでいった。

ぼくの両親は耳が聴こえない。父は幼い頃の病気が原因で聴力を失った、いわゆる後天性の聴覚障害者。対して母は、生まれつき耳が聴こえない、先天性の聴覚障害者だ。

彼らの日常生活には“音”がない。テレビのニュースも、ラジオから流れる音楽も、外を走る自動車の音も、なにもかもが聴こえない。ぼくの笑い声も泣き声も、つい漏れてしまうため息も、やり場のない感情を発露させた怒鳴り声も、彼らの鼓膜を震わせることがなかった。

いつしかぼくは、そんな両親を「守らなければいけない」と思うようになっていった。

幼稚園の頃から電話や来客の対応をするのは当たり前。自動車のエンジン音に気づけない母のために、買い物にも付き添う。映画鑑賞が趣味だった父と一緒に出掛けては、代わりに窓口でチケットを購入する。どれもこれも些細なことだったけれど、“聴こえない”ことでこうむる不便さや危険から、なるべく両親を遠ざけてあげたいと思っていたのだ。

まるで親子関係がねじれているようにも見えただろう。けれど、それが“ふつう”だと思っていた。

小学生の頃に“ふつうではない”ことを痛感した

ぼくの“ふつう”が、決して“ふつうではない”と思い知ったのは、小学生になった頃だ。

それまで家庭内という狭い世界しか知らなかったぼくは、学校という社会と触れるようになり、一気に視野を広げた。すると、同級生の親子関係も徐々に見えてくる。

そこで気づいたのだ。ぼくみたいなことをしている子は、誰もいない、と。

みんな、当たり前のように母親に甘え、父親に頼り、守られている。常に気を張る必要なんてなく、泣けば親が飛んでくる。

けれど、ぼくの家は違う。どんなに苦しくて、哀しくて、大きな声で泣いたとしても、両親の耳には決して届かない。伝えたいことがあるならば、面と向かって言葉にしなければいけない。泣いていれば助けてもらえる、なんて思えなかった。

だからこそ、他の家庭の子たちがひどく羨ましかった。本当は、ぼくだって甘えたい。つらいときは泣いて、「どうしたの?」と心配してもらいたい。ただ、子どもらしく守ってもらいたい。それだけなのに、叶わない。

やがてぼくは、両親になにかを期待することを諦めた。

誰もが当然のように享受している“ふつうのしあわせ”は、ぼくには無縁のことなのだと思った。

思春期には「家族」が「足枷」だと思っていた

そんな風に思うようになってから、ぼくは両親のことが少しずつ疎ましくなっていった。なにかを伝えるために手話を使わなければいけないことも面倒だったし、そもそも人前で手話を使うことが恥ずかしい。いつしかぼくは、母と買い物に行くことも、父と映画を観に出掛けることもしなくなっていた。

そして、あっという間に、心の奥底に溜まっていた澱が噴出した。

「どうして、障害者の家に生まれなきゃならなかったんだよ」

何度も何度も、怒りをぶつけた。

「なんで聴こえないんだよ、理解しろよ」

仕方のないことなのに、頭ごなしに叫んだ。

「お前らなんか、大嫌いだ」

どうしてこんなことしか言えないのか、わからなかった。

両親のことを否定するたび、自分自身も否定しているようで胸が潰れそうになる。それでも吐き出さずにはいられなかった。ときには泣きながら、家中の物を壊し、暴れるようにしてやり場のない想いを彼らに投げつけた。きっと彼らは、ボロボロだったと思う。

それでもぼくが苦しみや葛藤を散々吐き出して落ち着くと、彼らはそばに来て「ごめんね」と頭を下げるのだ。

――お父さんとお母さんの耳が聴こえなくて、本当にごめんね。

彼らは、数え切れないくらい、この言葉を繰り返した。障害があるのは両親の責任ではないのに、それでも彼らは自分たちが悪いと謝るのだ。

「守るべきもの」だった両親の存在が、いつの間にか怒りをぶつけ「傷つける」対象へと変化していた。

そしてぼくは、「家族なんて、もういらない」と思うようになっていた。ぼくにとっての家族は、ただの「足枷」でしかない。“ふつう”の人生を歩んでいきたいのに、いつだってそれを邪魔する。

二十歳を過ぎる頃、ぼくは地元を離れ、東京へと移り住んだ。

“ふつう”の呪いをかけていたのは、自分自身だった

それから十数年が経ったいま、ぼくは、あらためて両親と「家族」をやり直している。あれだけ“ふつうではない”ことを嫌悪し、周囲から浮くことを恐れていたぼくが、どうして彼らと向き合うことができたのか。

それは大人になって言われたひとことがきっかけだった。

お酒の場でたまたま家族の話になった。その頃には両親の障害も受け入れていたぼくは、なんの気なしに「ぼくの親、耳が聴こえないんだよね」と打ち明けたのだ。

すると、その場にいたひとりが「それは大変だったね。でも、あなたは頑張ってるよ」と言ったのだ。正直、カチンときた。

似たような言葉は、子どもの頃から何度も浴びるように言われてきた。

「お父さんお母さんの代わりに頑張っていて、本当に偉いね」

周囲の大人たちはぼくを褒めるときに、必ず両親の障害を引き合いに出す。それが気持ち悪くて、ときには哀しくもなっていた。でも、慣れている部分もあった。

それなのに、件の飲み会では、我慢できなかったのだ。

大変ってなに? 頑張ってるって? なにも知らないくせに、「障害者家族」という外側だけで、ぼくらのことを判断するな!

どうしてそんな風に怒ってしまったのか。きっと、ぼくらがどうにかこうにか形成してきた「家族の在り方」を、外野から簡単に判断されたくなかったのだと思う。

身内に障害者がいるという事実だけを見て、不幸、可哀想、大変といった言葉に結びつけるのはとても安易なことだ。その物差しはマジョリティ特有のものであり、彼らの間に蔓延っている“ふつう”を基準にしたものだ。では、そこから逸脱した(あるいは、しているように見える)者は、そのまま不幸の烙印を押されていいのだろうか。そんなわけがない。

けれど、怒りはそのまま自分に跳ね返ってきた。“ふつう”の物差しを基準にしてほしくないと憤っているぼく自身が、これまで誰よりも“ふつう”にこだわってきたじゃないか。両親のことを否定し、責め立てていた頃の自分がよみがえる。

障害者の両親から生まれてきたぼくは、“ふつうのしあわせ”なんて手にできないんだ――。ずっと呪いにかけられていると思っていた。でも、その原因は、ぼく自身にあったのだ。

世間が言う“ふつう”なんてクソくらえだ

そうして、ぼくは両親と「家族」をやり直すことにした。いまはこうして物書きの仕事をしているため、ある程度は自由に動くことができる。取材日を調整してはまとまった日程を確保し、定期的に実家へ足を運ぶようにしている。

だからといって、なにか特別なことをするわけではない。両親と会話し、同じご飯を食べ、一つ屋根の下で眠るだけだ。でも、それがとてもしあわせで仕方がない。ぼくが求めていた幸福の形は、こんなことだったのかと自分でも驚くほど地味だ。

「家族の在り方」を考えるとき、世間の“ふつう”に照らし合わせることはとても無意味なことである。いまならこう断言できる。

ありがたいことに多様性という単語が周知され、「人それぞれでいい」という考え方を持つ人が増えてきた。けれど、その根底には、「マイノリティの存在は認めるし受け入れるけれど、あくまでも自分はマジョリティに属していたい」といった考えが潜んでいないだろうか。

恥ずかしながら、ぼく自身はそうだった。

でも、そんな考えはもう捨てた。障害のある両親とともに、しあわせになってやる。世間が言う“ふつうのしあわせ”なんて、クソくらえだ。

だって、ぼくにとっては、耳の聴こえない両親と笑い合って、手話で会話し、音のないリビングで静かに温かいご飯を囲めることが“ふつうのしあわせ”なのだから。

プロフィール
五十嵐 大(いがらし だい)

1983年、宮城県生まれ。フリーライター。聴覚障害の両親の元で生まれ育つ。障害をはじめとする社会的マイノリティへの関心が高い。現在、2冊の著書を執筆中。
Twitter:@igarashidai0729