※この記事は2020年03月23日にBLOGOSで公開されたものです

1969年5月13日に行われた作家・三島由紀夫と東大全共闘の学生が対峙した討論会を映し出すドキュメンタリー映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』が3月20日に公開された。

監督を務めたのは自身も東京大学教養学部卒で、討論会が行われた900番教室に通った経験もある豊島圭介氏だ。この作品が初のドキュメンタリーとなった同氏に、制作を通じて考えたことや三島や全共闘運動についての印象の変化を聞いた。

三島と出会った人物たちのドキュメント

―映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を最初にオファーされたときはどのようなことを感じましたか?

僕自身ドキュメンタリー映画自体が初めてで、さらにドキュメントする対象が世界に誇る文豪で、舞台となるのは「政治の季節」と言われる1968~69年。今の日本の現状と全く違う時代だったと思うんですけど、そんな時代に行われている討論会を題材に、実際に登場するパワフルな人たちにインタビューしないといけない、というのは大変な仕事だと思いました。

―制作中はどのようなことを考えていましたか?

仕事を受けてから完成まで1年くらいかかったんですけど、最初の半年くらいはひたすら三島のことや当時のことを勉強する毎日でした。この討論会を日本の歴史のどういう場所に位置付けられるのか、あるいは三島に関しても様々な評価があって、どの顔の三島だと思って接すればいいのか、そういったことを考えて。

僕としては討論の意味が理解しきれないので、内田樹さんや平野啓一郎さん、小熊英二さんといった方に話を聞く中で、三島像や三島の思想の輪郭が見えてきたように思いました。その一方で同時に全共闘のことも勉強しました。このように準備段階では、討論会や時代背景について知的な理解を進める作業だったんですけど、実際に当事者に会って聞いたのは、自分たちの青春や挫折の話や三島という巨人と時間を共有したことがあるという興奮など、知的なだけではなく、当人の血肉になっている話でした。そのときに、この映画では三島と出会ってしまった人たちをドキュメントするんだ、と考えが切り替わりましたね。

―なるほど。撮影を通して映画についての捉え方も変わったと。

それまではガイドブックを作るために話を聞いていたのが、今度は三島と出会ってしまって人生が変わってしまった人たちを撮りに行く、とモードが変わったというか。

多面的な魅力を持っている三島由紀夫

―豊島監督は「三島と出会ったことで人生が変わった人たち」という点を強調しているのが印象的でした。討論相手となった全共闘の人たちも、三島と会ったことで人生が変わったと感じましたか?

それは間違いなくその通りです。三島が翌年に劇的な形で死んでしまったということとも関係しますが、例えば討論会の司会を務めた木村修さんは未だに三島はなぜ死んだのかを考え続けていたり、芥正彦さん(※)も一時期自分のプロフィールに「東大全共闘vs三島由紀夫オーガナイザー」と書いていた時期があったり、とそのくらいインパクトのあるイベントだったことを感じましたね。

※編集部注:東大随一の論客とされた人物で、討論会でも三島と激しく議論する様子が映し出されている。

―討論会に出て、この映画でも改めて証言する登場人物の方々は、当時と今にどのように折り合いをつけて生きていましたか?

映画の中でも全共闘の人たちに同じような質問をしましたが、答えは三者三様でしたね。だから、今回の映画の魅力の一つは、人間の50年前の姿と現在の姿を並列させて見ることができるところじゃないかな、と。討論会の映像とインタビュー映像をあわせて見ることで、人って50年でこんな風に変わるんだと感じる。そんな映画を撮ったことないですし、思想を取っ払ってもこの点はすごく面白いと思っています。

―三島については、どんな人間だと印象を受けましたか?

最初は斜めから見ていて、若者に立ち上がってくれと真剣に呼びかけたけど、結局は楯の会の仲間と死ぬしかなかった“裸の王様”像のようなものを抱いていました。でも、そんな皮肉な見方では収まらない多面的な魅力がある人だと思うようになりましたね。

裸の王様だという面はあったのかもしれないけど、そうやって切り捨てることで安心させてくれるような小さな人物ではありませんでした。どの方面にも真摯に言葉を発して、普通の人では真似できないことをして、人間としての側面がどれだけあるんだろう、と。本人に会って話をしてみたかったな、というのが映画を作った後の一番の感想ですね。

学生運動家たちの生き方に理解も

―「政治の季節」と呼ばれる、当時のイメージは変わりましたか?

やっぱりそうだったんだなと思ったのは、全共闘の人たちが次のように話していたことです。それは、もちろんアメリカや国に対しての憤りや、何かを変えないといけないという大義を感じていて、自分は何者なのかと真剣に問うていたけど、結局はバリゲードを作って閉じこもるのは楽しかった、ということ。

つまり、自分が今無法な行為をしていて、いつ機動隊に殴られ、警察に捕まるかわからない、というのがロマンチックな高ぶりのある遊びだった面は否定できないんだろう、と。ファッションと言うと少し違うかもしれないけど、学生運動自体が流行っていて、「お前はどこに立つんだ」という問いを常に突きつけられる時代。当事者にとっては楽しくて、刃向かうことが生きている実感を満足させてくれる、という感覚はあったんじゃないですかね。

―全共闘の人たちが討論会で話していることは、とても抽象的で無意味な議論にも聞こえます。撮影を終えてその辺りの理解も変化しましたか?

映像を見たときは、こういうことを言って人をけむに巻いても何の役にも立たないよな、と思っていました。言葉を使った遊戯と言ったようなイメージ。それも段々と印象が変わって、芸術の話というのは最終的に言葉とどう対峙するのかに繋がるのだろうし、この人たちはああいった議論を通して真剣に生き方を探っているんだな、と考えが変わりました。

一方で三島が自分の慣れ親しんだボキャブラリではない言葉に対しても、真摯に返そうとしているところは立派な人間に見えますよね。

自分の行動が世界を変えられるという物語

―先ほども「現代とは遠い時代」と話していましたが、当時と今との違いはどう感じますか?

当時と比べると、自分の行動が世界を変えられるんじゃないか、と考えられなくなっていると思います。僕も、自分が社会に参加している意識はあまり強くない方なんですけど、撮影を通じてそうした物語を頭に思い描きながら生きるのは面白そうだな、とは感じましたね。

―最後に、そのように時代背景が異なる現代に生きる人が、この映画をどのように楽しんだら良いと思いますか?

社会的な事象として学生運動が好きな人、文学や政治が好きな人には面白い側面が山ほどあると思います。当時生きていた人は、自分の青春を思い出すように見てほしいですね。

それに加えて、こんなに面白い人たちがいっぺんにスクリーンに映ることって多くないと思うので、何かを解釈するのではなく、熱を持った面白い人物たちを見る目的でも楽しめる映画だと思います。映画としては論理で作っていたところもありますが、出演する人たちに「とてもいい映画だった」と言ってもらえたとき、これは何が正しくて何が間違っているというだけではなく、三島由紀夫と当時の学生たちをドキュメントの形で目撃する映画でいいんだな、と考えた部分もあります。その人なりのやり方で楽しんでもらえればと思います。