※この記事は2020年03月19日にBLOGOSで公開されたものです

ツイッターCEOが掲げる「ツイッター分散化」

ツイッター社CEOジャック・ドーシーが今後のツイッターの方向性として「分散型SNS」の可能性を模索していることを、自身の連続したツイートのなかで表明した(*1)。この表明は日本でも取り上げられ、大きな話題になった(*2)。

「分散型SNS」とは、今後ツイッターはまず国ごとにサーバーが分割され、またその各国サーバーに紐づけられる形で、一人ひとりのユーザーが第三者として(サーバー利用料さえ支払えば)それぞれが「自分のツイッターサーバー」を開設することができるような形式をとるようになるということだ。これはたんなる仕様変更以上の意味をもっている。

ツイッターは当初から「分散型SNS」として運用されることを想定していたが、最終的には中央集権的なプラットフォームとして管理されることになった。ともあれ、情報技術に明るいイノベーターたちのコミュニケーションツールとして活用され、管理者・利用者ともにフラットな立場で新しい人間関係と技術的発展を模索し、実際に順調に運用ができているようだった。

しかし利用者が増えるにつれて運営コストがかさんでしまい、結果的にツイッターの運用方針は否応なく「収益性重視」の路線変更を迫られることになった。「新しい物好きの、情報技術に明るい人びとが集まる、牧歌的でフラットなコミュニケーションツール」としてのツイッターはゆるやかに終焉を迎えた。今日に至る「狂気と憤怒の培養装置」としてのツイッターへと向かう路線へと進路を切り替えることになってしまったのだ。

単一のグローバルポリシーによって一元的にすべての悪意あるツイートを管理することは困難であるばかりか、現在のオープンでフラットなプラットフォームは、穏やかなコミュニケーションではなく、むしろ論争や怒りの共有のために人びとのリソースが用いられはじめた。

「分散型SNS」は、それらの問題を解決するために提案された。先述のとおり、サーバーの運営コストさえ支払えば、だれもが「自分のツイッターサーバー」を持つことができるということを意味する。それぞれが自分の興味関心や政治的傾向のテーマにあわせてサーバーを開設したり、あるいは他人が開いたサーバーに参加したりすることができる。大きな空間で小集団がクラスタを形成するのではなく、小集団ごとにそれぞれ分立して参加するSNSの集合体に変わっていくのだ。

この試みは、SNS上で日夜繰り広げられる「争い」「怒り」に大きな効果を発揮するだろう。

ツイッター上で激化する「オタク」と「フェミニスト」の対立に変化か

たとえば、現在「ひとつのツイッター」上では「オタク」と「フェミニスト」の対立が激化している。「分散型SNS」導入後のツイッターであれば、「オタク・コンテンツ」が好きな人はそういう人と集まってサーバーを構築することができるし、「オンライン・フェミニズム」が好きな人も同様のことができる。

「ひとつのツイッター」上で生じていた両者の対立は、「分散型SNS」が導入されれば間違いなく「サーバー間対立」の構図へとスライドしていくことになるだろう。しかしながら「ひとつのツイッター」の時代には不可能だった「ドメインブロック」を行うことで、双方は敵対するサーバーを利用するアカウントを一括で遮断することができるため、局所的かつ個別的な争いが起きる可能性は大幅に低くなる。

個別にアカウントをブロックしかできなかった「ひとつのツイッター」の頃とは違い「嫌なら見るな」の原則をより強固にすることができる。いうなれば「嫌なら(自分から別のアカウントをつくってサーバーにアクセスしないかぎり)絶対に見なくて済む」と。

「ひとつのツイッター」をはじめとするSNSは、自分の好きな人や物だけでなく、嫌いな人や物に対する「認知的距離感」をも消し去ってしまった。私たち人間は、視覚的情報によって物理的距離感を推し量ることには長けているが、物理的実体の伴わない情報と自分との認知的距離感を取ることはきわめて苦手である。

フェミニストたちが、いままで行ったこともないような地域のキャンペーンに「萌えキャラクター」が使われているのをSNS上で発見したら、まるで自分がセクハラに遭ったかのように被害意識が発火してしまう様子をしばしば目にする。

こうした現象は、当人の自他境界が曖昧であることで説明されるだけではなく、そもそもSNSを介したコミュニケーション自体が「自分には本来的に関係のないことかどうか」という判断を鈍らせてしまう性質を伴っているため、より顕在化しやすくなっている側面も無視できない。

現状では「嫌なら見るな」と言われても、その対処法には限界がある。現在のツイッターの仕様的には、自分ではコントロール不能な要因(RTやfavなど)によって「偶発的に目に入ってしまう」こともあるだろう。個別アカウントをミュートしたりブロックしたりする対症療法的な処置は可能であっても、しかし「ひとつのツイッター」内では、不快感を惹起する存在を否応なく認識してしまいうる根本的問題はまったく解決されない。

「分散型SNS」が導入されることで実現されるのは「嫌なら見るな」ではなく「嫌なものはそもそも同じ場を共有しないようにしましょう」という世界だ。「敵」のいない快適さに、多く人びとは闘争することも忘れて歓喜するだろう(もちろん、わざわざ不快なものを攻撃するために探す酔狂な例外は排除できないが)。

とりわけ「世間の人には(なにを言われたり思われたりするか知れたものではないから)見られたくない」という意識を強く持つオタクたちにとっては、分散型SNSによって与えられる恩恵は一入(ひとしお)かもしれない。オタクたちは当初「多くの人に見てもらえるのがうれしい」と思っていたかもしれないが、おそらく近頃は「もう懲り懲りだ」となっている人が少なくないだろう。なにせ、世間のプレゼンスを獲得すれば、そのぶんだけ「炎上」してしまうリスクが高まってしまうのだから。

「理解しえない」ことを理解した末の最適解

「分散型SNS」は、SNSの全世界的かつ急速な普及と並行しながら、世界(とりわけSNS普及率の高い先進各国)が政治的に推し進めてきた「多様性」という一大思想のひとつの帰結としても見ることができる。

すなわち、グローバル社会が理想的に追求してやまなかった「多様性」とは「相互理解を前提とした共生」を結実するのではなく「相互理解が無理であることを理解したうえでの決別」へと終着するということだ。言い換えれば「私たち人類には相互的な理解のうえで調和し、よき隣人として生きることを求める多様性」は、まだ早すぎたのだ。「融和して生きる多様性」ではなく、「決別して生きる多様性」の端緒として「世界的SNSのひとつであるツイッターにおける分散型SNSの導入」が位置付けられることになるだろう。

私たちは「お互いがことばを尽くせば、」と聞くと、そのあとには「分かりあえる」というフレーズが挿入されるとしばしば連想してしまうが、現実はそれほど甘くはない。実際にはその逆で「お互いがことばを尽くせば、別れあえる」となることの方が多い。価値観も行動様式も異なる双方がSNS上でことばを尽くした末に導き出される最適解が「和解・融和」ではなくて「決別・分断」であると、多くの人びとが気づき始めた。

コミュニケーションの結果として、お互いが「理解しあえないことを理解した」うえで、それでもつぶし合わずに「これまではオンライン上で取ることが難しかった認知的距離」を取っていくための方策が「分散型SNS」となるだろう。もとより人間はすべての人と分かりあうことなどできないし、分かりあうことのできない人が自分のすぐそばで暮らすことを長く許容するほど器用で柔軟な認知機能を有していない。ほとんどの人にとって耐え難いほどのストレス(認知的不協和)がともない、そのストレス源を排除したくなるようにインプットされている。

国籍や人種や民族や価値観や考え方や行動様式の異なるだれしもが、たとえゼロ距離で近接して生きていくことになったとしても調和して生きていける(べき)――と謳った「多様性」という一大思想の終着駅に向けた列車に、私たちはいま乗車している。だがこれは、悪いことだと言えるのだろうか?そばにいればきっと争ってしまう人びとが、お互いの姿を視界に入れず、穏やかに過ごせる道でもあるのだ。

相容れない者同士が殲滅戦を回避するために、決別して生きる道もある。SNSで繰り返される争いに疲れた人びとは、軋轢や衝突を受忍しなければならない「多様性」より、「平和的決別」を選ぶときがいずれやってくる。

【参考文献】
(*1)https://twitter.com/jack/status/1204766078468911106

(*2)Wakageeks『SNSが変わろうとしている:Twitterの分散化方針をアナタは知っているか』