封印された名曲「TSUNAMI」 サザンオールスターズが東北の被災者励ました伝説のライブ - BLOGOS編集部
※この記事は2018年12月31日にBLOGOSで公開されたものです
2018年に結成40周年を迎えたサザンオールスターズが大晦日の31日、平成最後の大トリとしてNHK紅白歌合戦に出場し、そのプレミアムイヤーに幕を下ろす。デビュー記念日の6月25日には東京・NHKホールでワンマンライブを行い、夏には13年ぶりとなる野外フェスにも登場した。
ただ、現在もライブでは披露されていない名曲がある。
「TSUNAMI」――。
1万5897人の尊い命が奪われた東日本大震災。いまも2534人の行方が分かっていない(ともに今月10日現在、警察庁)。東北の沿岸部は、街並みも住民の人生も津波にめちゃくちゃにされた。
11年3月11日の震災後、曲はそのタイトルゆえに、テレビやラジオで自粛が進み、ネット上では様々な意見が上がった。「津波の犠牲者を思えばとても聞く気にならない」「TSUNAMIが聞けるようになった時が本当の復興」などと。
時間が経った今、曲はラジオでも飲食店の有線放送でも当たり前に流れるようになった。その歩みをたどると、太平洋沿岸部の宮城県女川町にあった小さな臨時災害放送局に出会う。
津波に人生を翻弄されながら、TSUNAMIに震災前の何かを追い求めるかのように葛藤を繰り返した被災地・女川の人。そして、そんな思いに対し、被災地を訪れいつものように明るく力強く支えようとしたサザンの桑田佳祐さん。
タイトルに取った言葉ゆえに封印されかけた曲からは、互いを気遣い合う被災地とサザン、それぞれの思いが浮かんでくる。【岸慶太】
被災地を思う優しさから消えかけた名曲
風に戸惑う弱気な僕
通りすがるあの日の幻影
本当は見た目以上
涙もろい過去がある
TSUNAMIはこんな歌い出しで始まる。発売された2000年の「第42回日本レコード大賞」を受賞。290万枚以上を売り上げる大ヒット曲となった。
失恋しても思いを寄せ続ける切なさを歌った曲には、次のような一節もある。
見つめ合うと素直にお喋り出来ない
津波のような侘しさに
I know..怯えてる,Hoo…
「なぜ津波に例えたのか」「不謹慎だ」――。震災後、そんな批判が上がった。国民的名曲はテレビやラジオから姿を消し、一転して放送禁止歌になりかけた。
曲はその後、少しずつテレビやラジオで流れるようになった。ただ、サザンがバンドとして13年夏に再結成されてからも、ライブで披露されることは無かった。
津波被災地・女川を励ます小さなラジオ局の誕生
宮城県女川町は県北東部に位置し、全国有数のサンマの水揚げ量で知られる港町だ。北上山地と太平洋が交わり、リアス式海岸などその風光明媚な街並みは住民の誇りだ。そんなまちを7年前のあの日、大津波が襲った。
800人を超える死者、行方不明者が出た。多くの住民がかけがえのない人やものを失った。
まちに災害臨時放送局「女川さいがいFM」が誕生したのは1か月後の11年4月21日。さいがいFMは震災直後、被災した住民らに被害状況や避難指示を伝え続けた。その後も、復興を目指す小さな町の放送局として住民の喜怒哀楽を伝えてきた。
番組「佐藤敏郎の大人のたまり場」は、地元の中学校で国語を教えていた佐藤敏郎さんがパーソナリティーを務めていた。佐藤さん自身も震災で石巻市立大川小学校に通っていた小学6年の次女を失った。震災遺族の一人だ。
津波の遺族から届いたTSUNAMIのリクエスト
震災から約4年後の15年3月3日。佐藤さんのもとに曲のリクエストが届く。メールの主はインターネットを使って女川さいがいFMを聴き続けているという埼玉県内の43歳男性。女川から北に約26キロ離れた沿岸部にある南三陸町の出身で、母親を津波に奪われた。佐藤さんが番組で男性からのメールを紹介した。
実家は南三陸の歌津にありました。ありましたと書いているように、もう跡形もありません。
親もまだ若くて元気なほうでしたから、震災前は「帰って来い」と言われながらも仕事もなかなか休めず、またお金の余裕もなくて、あまり実家に帰ることはありませんでした。でも、あの3月11日を境に、帰りたくても帰れなくなってしまいました。
震災の前の晩に留守番電話に入っていた母からのメッセージ、今も消せないでいます。そして、何度も何度も再生ボタンを押しては、後悔の念ばかりが強くなるのです。なんで自分は何もしてあげられなかったのだろうかと。
(中略)
(女川さいがいFMの)みなさんのお話を聞いていると、あの大変な状況になった町から逃げ出さず、その町から始めようと頑張っておられる姿がラジオから伝わってきて、本当に自分が恥ずかしくなります。
自分は埼玉にいて暮らしの面では何不自由なく生きていられます。それどころか、震災後、何度か変わり果てた姿の故郷に帰って、そこにかつての自分が知っている街の姿さえ残っていない現実を知って、逃げ出してしまっているのです。かれこれ2年以上帰っていません。
それでも、気になって気になって、それでも少しでもふるさとのにおいをかぎたくて周辺の災害エフエム局を聞いています。
「必要以上の気遣いはやめたほうがいい」
そして、リクエストメールはこう続いた。
リクエストはサザンオールスターズのTSUNAMIをお願いいたします。ご存知の通り、この曲は震災以来、どこのラジオ局でもかかりません。
とうの桑田佳祐さん自身も最大のヒット曲でありながら、ラジオでかけたり、コンサートで歌ったりというのを控えているようです。
この曲のタイトルがつらい記憶を呼び起こすというのが理由のようですが、この曲はあの震災とは関係ありません。人を愛する感情をうまく表現した名曲だと思います。
以前はよく職場の人間とカラオケに行ったりすると、誰かが必ず歌っていました。でも、震災後はどことなく敬遠されています。私の場合は職場でも、実家や親が亡くなったと知られているせいか、変に気を使われているのがたまに苦しくなることがあります。あの津波によって私も含め、まだまだ苦しい気持ちになる人はたくさんいると思います。
でも、それは一生続くのです。いい加減、必要以上の気遣いはお互いやめたほうがいいと思っているのですが、なかなか面と向かっては言えません。それに、私はしょせん、あの日に波をかぶったわけではないのです。
だからこそ、敏郎先生に伺いたいのです。この曲をかけてもよいと思ってもらえるようであれば、ぜひラジオから流してほしいと思います。
「災害の歌でもつらい歌でもない」でも、まだ流す時期ではない
紹介を終えた佐藤さんが語った。
「災害の歌でもつらい歌でもないんだよね」
「タイトルがTSUNAMIってだけで」。
続いて、妻と娘を津波で失い、息子と生きる知人のエピソードを紹介して、こう言葉をつないだ。
「震災があったせいで行けなくなった場所とか言えなくなった言葉、歌えなくなった歌っていうのは、本当は無いほうがいい」
一方で、佐藤さんの目にスタジオに遊びに来ていた町民、アシスタントの女性の表情が映る。
「そういうことは頭ではわかっているんだけど、ふと頭の中によみがえってくる。なんかドキドキしてしまったり、というのもそれもまた事実」
最後に何かを決意したかのように、こう結んだ。
「一つ言えることは、きっといつか『次はサザンのTSUNAMIです』って流せたらいいと思っています」。
番組では曲をOAする準備をしていた。
それでも、まだ時期ではない――。それが答えだった。
3か月後に決まった閉局 被災地思う桑田さん側から連絡
それから、9か月後の15年12月。町の復興が徐々に進むのと合わせて、放送局の運営スタッフは不足しがちになった。財政難も重なった。まちの復興のシンボルだった女川さいがいFMは、3か月後の16年3月限りでの閉局が決まった。
TSUNAMIをOAすべきかどうか――。津波被災地の放送局、そして佐藤さんに課せられた宿題はまだ片付いていなかった。
ちょうどそんなころだった。さいがいFMの閉局を知ったサザンの関係者から放送局に連絡があった。桑田佳祐さんの女川訪問の打診だった。閉局を間近に控えた16年3月26日。桑田さんのラジオ番組「桑田佳祐のやさしい夜遊び」(TOKYO FM系列)を、女川から生放送することが決まった。
女川での伝説のライブ 披露された波乗りジョニー
当日、JR女川駅にある小さな温泉施設「女川温泉ゆぽっぽ」。エフエムのイベントと聞かされた町民ら約100人が畳敷きの休憩所に集まっていた。サプライズで現れた桑田さんが「女川さいがいFM ありがとう」と叫んで、ヒット曲「勝手にシンドバッド」を皮切りに次々と代表曲を歌い始める。
「リスナーの方々の思いとか、ご苦労は明日からまた、いろいろな形で東北、女川の真の復興につながっていったらいいな」。
桑田さんは、MCでそう語りかけたかと思えば、地元にあった“女川第二中学校”の校名にちなんで中村雅俊さんとやりとりしたという下ネタで女川の人たちを盛り上げる。いつものように楽しく明るく。
11曲が披露された伝説のライブ。サザンファンの聖地として被災地・女川を訪ねる人も増えていった。このライブでは、TSUNAMIが披露されることは無かったが、桑田さんは「波乗りジョニー」を披露した。
「被災地の放送局だからこそ」 閉局前最後の曲に選んだTSUNAMI
お祭り騒ぎから3日後の3月29日。女川さいがいFM閉局の日を迎えた。津波被災地の放送局としての5年間の歩みを終える。その最後の曲として選んだのは「TSUNAMI」だった。
正午での停波が約10分後に控えていた。パーソナリティーを務めた木村太悦さんも父親を津波で失っていた。淡々と語り始めた。
この曲はタイトルがタイトルということで、東日本大震災、2011年3月11日からずっと自粛を余儀なくされてきた曲なんですけど、ただ、やはり、どうしても、皆さんがもしかしたら心のどこかで待ち望んでいた1曲ではないかなと思います。
我々、臨時災害放送局、女川さいがいFMだからこそ、今この閉局のタイミングだからこそ、かけられるこの曲だというところで、最後、町長に曲紹介をお願いします。
須田善明町長は曲紹介を終えると、スタジオの外に出て、放送局として最後の曲TSUNAMIを集まっていたリスナーとともに聴いた。間もなく、時刻は正午になった。放送局は電波の送受信を停止させ、「ジー」という音だけを響かせた。被災地を支え続けた5年間の役割が静かに終わった。
そのタイトルを理由にTSUNAMIも被災した 自分たちと同じ
須田町長はこの日のことを、自らのブログに次のようにつづった。
抜けるような真っ青な空のもと、この五年間の女川さいがいFMの奮闘を思い、そこにそれぞれのこの五年間を重ね、そして五年前までは気軽に口ずさんでいたはずのメロディーを五年ぶりにそれぞれに口ずさみ、涙しながら皆でその時間を送った。
率直に、改めて良い曲ですね。何かを思い起こさせるどころか、却って心を優しく包み込んでくれるような。五年ぶりに聴いたと思えないほど、それは自然に入ってきて、ではありながら、ここまで胸に染み入ってきたのも初めてでした。
思えば、この「TSUNAMI」という唄も、「曲名がそうだから」という理由であの日「被災」した(させられた)んだよなあ、と。時間軸は個々に違うけれども、それぞれが少しずつ普通の生活や時間、在るべき日常を取り戻していく中にあって、この唄もそうであっていいはず。
佐藤さん 波乗りジョニーは桑田さんからのエール
最初にTSUNAMIのリクエストメールをもらった佐藤さんは、閉局の4日前に自らの番組「佐藤敏郎の大人のたまり場」の最終回を迎えた。その日の番組テーマを「海」に選んだ。メールを送ってくれた男性への答えを示し、TSUNAMIへのけじめをつけるかのように。
男性からのメールについて語った。
「この曲を流せない理由は無いってなったけど、流せなかった」
メールをもらってからの1年間を振り返った。
「必要なのは時間ではなく、一歩を踏み出すタイミング」
「このリクエストに触れずに、最終回にするわけにはいかなかった」
「あの震災はそのうち忘れられるものではない、絶対に。忘れてはいけないし」。
そして。
「リクエストにお応えします。みんなで歌います。サザンオールスターズのTSUNAMI」。
スタジオにいたリスナーと一緒に曲を歌い上げた。
佐藤さんは女川を訪れた桑田さんを案内し、夜にはライブを見た。数ある曲の中から、「波乗りジョニー」を選んで歌ってくれた桑田さんの姿が印象に残っている。
振り返れば、震災後、「海」や「波」に過敏になった。それは大切な街を襲った津波を知っているから当然だ。でも、「歌の意味を考えれば、何かのメッセージのようだった」。間近で聴く波乗りジョニーは、桑田さんからのエールだったのかもしれない。
佐藤さんは31日の夜、これまでと同じくNHK紅白歌合戦を見て過ごす。「特別な意識なく、サザンを自然に楽しみたい」。中学生のころから大好きだったサザン、そして桑田さん。40周年記念の年の最後の日を迎えた今日、あの女川でのライブのようにたくさんの人を喜ばせる姿を楽しみにしている。