私を「何者」かにしてくれるのは非効率なしがらみかもしれない - 紫原 明子
※この記事は2018年12月06日にBLOGOSで公開されたものです
先日、たまたま仕事で訪れた郊外の町で、地域振興のための小さなお祭りが行われていました。町の人によるほのぼのとしたステージのほかに、焼きそばや綿菓子など露店も立ち並び、にぎやかな雰囲気。せっかくなので家に帰る前に少しだけ立ち寄ることにしました。
子どもの頃はこういう地域のお祭りのしみったれた空気が大嫌いだったんですが、大人になり東京に出てきて、大好きになりました。地域のお祭りの何がいいって、普段なら許されないような場所で堂々とビールを飲めるし、ビールを買って、地域の人に「ありがとうございます」とお礼されたりするところが、いいな、と思います。町が一時的にゆるくなる感じにほっとします。
その日も例によって、とりあえずビール。ついでに、美味しそうな香りに誘われて焼きそばも買うことにしました。テントの下の大きな鉄板の上では、町の人たちによって大量の焼きそばが焼かれています。
「田中さん、もう次の麺、開けていい?」
「まだダメ、こっち寄せてから。あ~◯◯さんそれはまだ触っちゃダメだってば~」
「田中さん、油これくらい?」
「あ~あ、プールみたいにじゃぶじゃぶにしちゃったのね~」
その場ではどうも、田中さんと呼ばれる年配の女性が司令塔となっているようでした。みんなが田中さんを頼り、期待に応えて田中さんが指示を出す。田中さんはおそらく、何年もこの町のこのお祭りで焼きそばを焼き続けてきたプロなのでしょう、手慣れているし、指示の出し方には隠そうにも隠しきれない熟練者たるプライドが滲み出ます。つまり、毎度毎度、どうにも余計な嫌味が加味されるのです。
自分の持っている知識や技術の価値をできうる限り最大化し、相手を圧倒してやろうといわんばかりの極上の嫌味。…いやさすがにこれは少し言い過ぎかもしれませんが、焼きそば作りのプロ、嫌味を言わせてもプロといった田中さんの貫禄には、目を見張るものがありました。
お金を渡して焼きそばパックを受け取る、その一瞬のうちに垣間見られたやりとりだけで“めんどくさそう!”と、つい笑い出しそうになってしまうほど。
自尊心を守り続けるための場所とは
若い人たちの中には、おそらく、こういうめんどくささを嫌悪し、地域のつながりの薄い都市部に住みたいと思う人も多いのだろうと思います。実際私も都市部の賃貸住宅に住んでいるので、町内会やマンションの理事会などとは縁がありません。
とはいえ子どもの幼稚園や小学校のPTAで、地域のお祭りに参加して、焼きそばを焼いたり、餅を丸めたり、綿菓子を作ったりというようなことはやってきました。するとそこにはやはり、田中さんほど嫌味ではないけれども、焼きそばを焼き続けてうん十年、餅を丸め続けてうん十年、餡を炊き続けてうん十年、といったさまざまなその道のプロがいるんです。
プロになれば当然プライドだって出てくるわけで、たまにちょっと厳しさや嫌味が覗くこともあります。でも、それもある意味当然のこと。なにしろそのとき、その瞬間というのは、「焼きそばといえばやっぱりあの人だよ」「餅といえばあの人だよね」と、周囲の賞賛を一身に浴びながら、主役となって活躍できる、待ちに待った晴れ舞台なのです。
私のことを少しお話しさせていただくと、実は私はいろいろな歌手の歌真似、モノマネがとても得意なのです。でもこのご時世、歌がうまい人も、モノマネがうまい人も決して少なくないので、特に特技として触れ回ったりせず、日頃は秘めています。
けれどもたまに、飲み会の二次会などでカラオケ機材のある店に行ったりしたとき、何も言わずにそっと仕込んだ歌真似がウケて、ワッと場が湧いたりすると、とても得意な気持ちになります。自分は素晴らしい人間なのだと思うことができます。
私は今、幸いにも物書きという情熱をもって取り組める仕事を持っています。物書きには定年退職がないので、自分が音を上げない限りは、ずっとやり続けていられるのでしょう。でも、ふと、私がもしいつか音を上げてしまったら、私がいつか物書きでなくなってしまったら、私はどうやって自分自身の自尊心を守り続けていけるのだろうと考えることがあります(もちろん、ある人が何者であろうがなかろうが、その人の尊厳そのものが失われることはないはずなのですが)。
そんなとき、歌真似というのはきっと、私の心の大きな拠り所のひとつになってくれるのではないかと思います。
屋台やPTAを非効率だからと排除すべきか
わざわざ貴重な休みの時間を使って、顔見知り程度の近所の人達と強力して焼きそばを焼く。なんともめんどくさいことです。その上、全然効率的ともいえません。貴重な時間と労働力を無償で費やせといわれるくらいならその分、お金で解決したい、というのはPTA存続の是非などの場面でもよく出る話です。
ガス代や食材費、それに関わる人の時給などをちゃんと計算すると、工場で一気に大量生産される焼きそばを発注したほうが、もしかしたら安上がりだったりするのかもしれません。けれどもそうしてしまうと、田中さんが輝く場というのは失われてしまうことになります。
大人として社会に出て驚いたことの一つに、生産性が思ったより重視されていなかった、ということがあります。社会のいたるところに、依然として効率化されず、非効率なまま残って、運営されているシステムがあるのです。
子どもの頃、大人というのはもっと金儲けファーストに、ビジネスライクに活動していると思っていたんですが、どうやらそうではなくて驚きました。そして、その原因に、いい大人の惰性や、プライド問題などがあることを知り、しょうもないな~と思ったりしたものでした。
実際、惰性で改善されないもの、また政治や行政など、私たちの生活のコアな部分に関わるシステムに残される非効率(エクセルの表を印刷してFAXで送信させる等)については本当にしょうもないなと思うんですが、一方で、たとえば地域の祭りで焼きそばを焼くなど、小さなコミュニティの中に根付く非効率って、面倒なしがらみになり得ると同時に、いつ、今プロ意識を持って取り組んでいることを手放さないとも言い切れない私たちにとって、案外貴重な、自尊心のセーフティネットとなるのではないでしょうか。
社会の効率化はどんどん進めるべき。会社や地域やPTA、あらゆるコミュニティで、古き悪しきしがらみや非効率がどんどん排除されていくべき。と、そんな風に思っていたこともあったけれど、非効率にこそ救われている人たち、救われる可能性のある人たちについても、今一度きちんと考えなければならないな、と感じています。