※この記事は2010年08月19日にBLOGOSで公開されたものです

 メディアによる子供の虐待死報道が相次いでいることから、市民団体が虐待死に対する厳罰化や、児童相談所や警察などによる情報共有の徹底などを訴え、その署名が10万人分を超えたという。(*1)

 どうして「厳罰化すれば虐待は減る」などという、単純すぎる考え方に、これだけ賛同する人がいるのだろうか?
 そもそも、基本的なデータで言うならば、虐待を含む「幼児が殺される数」は、右肩下がりに減り続けている。また人口比においても同様であるということを、『戦前の少年犯罪』の著者である管賀江留郎が提示している。(*2)
 さらに、虐待死は「虐待死では死刑にならないから殺してしまおう」という考えに至る性質の犯罪ではない。
 もし利己的な親が、単純な嗜虐心で子供を虐待しているとしても、虐待死は、そうした親にとっても避けるべき事態である。なぜなら子供が生きていればいつまでも子供をモノ扱いして、虐待し続けることができるが、死んでしまえばそれ以上の虐待を加える事ができず、ストレスの発散先を失うばかりか、死にまつわる面倒を引き受けなければならなくなるからだ。
 虐待死は、今でも虐待をしている親にとっては十分なリスクであり、仮に虐待死が厳罰化されたとしても、「私は殺さないように、うまく虐待をやれる」と都合よく考えてしまう親に対する抑止効果はないと考えられる。

 もちろん「ひとりでも虐待で殺される子供が少なくなれば」と、運動に精を出す気持ちは理解できなくもないが、そうした考え方から虐待に対する社会からの管理監視が過剰になれば、これまで以上のストレスを親に与えかねない。そして当然、親のストレスの矛先は子供に向う。
 そもそも、一連の虐待死報道の中に、子供を木箱に入れて窒息死させた事件があった(*3)が、これは親が子供の夜泣きに悩んだ末に、引き起こした事件である。
 最近では虐待を問題視する人たちの「夜泣きが酷い場合は虐待を疑おう」という発言を耳にすることがあるが、そうした言説が、夜泣きに悩む親を追いつめているとすれば、むしろ「子供を虐待から守ろう」という言説が、子供の夜泣きをなんとかしなければいけないという焦りを産み、それが子供の虐待死に繋がったとも言えよう。
 「重罰化すればその犯罪が減るだろう」というのは、あまりに世の中をイージーに考えすぎではないかと思う。提言する人も、賛同して署名をしてしまう人も、もう少し虐待の意味をじっくり考えてみるべきではないだろうか?

 虐待というのは、親子の関係性の1つに過ぎない。
 関係性に正しい正しくないは存在せず、ただ結果のみが存在する。
 同じ「子供を殴る」という行為にしても、子供が成長したときに、子供は親に殴られたことを感謝するかもしれないし、恨みに思うかも知れない。もしくは、打ち所が悪く、虐待死するかもしれない。
 「人間を育てる」ということは、Aをすれば必ずA'になる。などという単純な構図ではない。
 人間関係の複雑さを考えれば、単純に「厳罰化すれば虐待は減る」などと思いこむことは無いはずである。
 最近は「人間関係が希薄化している」と言われるが、「人間関係の希薄化」とは、家や地域コミュニティーなどの密接な繋がりが少なくなった事ではなく、お金を持った人と貧乏人のような、異なる立場の人達が一緒に生活する空間が少なくなり、人間関係の幅が狭くなってしまったことを指すのではないか。
 こうした単純な考え方の運動で満足してしまったり、署名をしてしまう人が多いという事自体が、自分とまったく違う状況にある他人のことを思いやることのできない、「人間関係の希薄化」の一例であると、私は考えている。

*1:虐待死を防げ! 厳罰化求め署名10万人、国会へ(産経新聞)http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100811-00000563-san-pol
*2:児童虐待についての基本データ(少年犯罪データベースドア)http://blog.livedoor.jp/kangaeru2001/archives/52175200.html
*3:“自作”木箱に1歳女児入れて窒息死(スポニチ)http://www.sponichi.co.jp/society/news/2010/07/25/08.html

■プロフィール
赤木智弘(あかぎ・ともひろ)…1975年生まれ。自身のウェブサイト「深夜のシマネコ」や週刊誌等で、フリーター・ニート政策を始めとする社会問題に関して積極的な発言を行っている。著書に「「当たり前」をひっぱたく」など。