【赤木智弘の眼光紙背】臓器移植を望むということ - 赤木智弘
※この記事は2009年05月20日にBLOGOSで公開されたものです
臓器移植法の改正に対して、自民民主の有志が、「臓器提供時に限り、脳死を人の死とする」という脳死の運用を現行法と同等にしたまま、提供者年齢を0歳まで引き下げるD案を衆議院に提出した。(*1)こうした動き対し、臓器移植患者団体連絡会などは、「まだ亡くなっていない子どもを、親の承諾で死んだことにしてしまう」として反発。「脳死は人の死である」と定義し、家族の同意によって臓器摘出を行うことのできるA案の速やかな採決を求めているという。(*2)
私が思うに、子供が脳死で亡くなったドナー家族にとっては、A案もD案も、どちらも変わりのないものであるように思える。どちらにせよ今回問題になっている「15歳未満の臓器の移植」については、ドナー家族による同意が必要である以上、「まだ亡くなっていない子どもを、親の承諾で死んだことにしてしまう」という構図は、何も変わらない。
ドナー家族の観点でこの問題を見る限り、私にはD案を否定しつつ、A案を推進する考えかたを理解することができない。
だが逆に、子供の臓器移植を待ち望むレシピエント家族の感情を考えるならば、A案とD案の間には、大きな差が見えてくる。
A案においては、法的に「子供は既に死んでいる」とされ、死んだ子供の臓器を提出させることに対する抵抗感は少ない。しかしD案では、心臓の動いている=生きている子供を「死んだ」とドナー家族に承諾させなければならない。もちろん、レシピエント家族がドナー家族に直接承諾を働き掛けるわけではないが、それでも「ドナー家族に子供を殺させたのだ」という感情は、一生レシピエント家族に残ることになる。
そうした意味であれば、私はレシピエント家族がD案に憤る意味を、理解することができる。
しかし、それはどうしようもないことではないだろうか?
レシピエント家族として、ドナーの発生を待ち望むことは、明確に「他人の死を望む」ことなのだ。
そして、ドナーの死とドナー家族の悲しみを踏み台にして、愛する我が子を治療することが、レシピエント家族にとっての臓器移植の意味である。
他人の死と引き換えに、他の誰かを治療する臓器移植という治療法は、それだけ「業」を包有する治療法なのである。ならば、その業から逃げることなく正面から受け入れ、それでも命を繋ぐために、臓器移植の環境を整えていくという強い意志が、レシピエント家族には必要なのである。
しかし、業から目を背け、「私のかわいい子供が死にそうなのだから、移植を受けられて当たり前」や「移植すれば治るのだから、治療をするのは当然」や「欧米では当たり前。日本は遅れている」などと考えるならば、臓器移植に対する多くの人の反感を助長するだけではないだろうか。
いくら臓器移植法が改正され、脳死が人の死であると認められたとしても、臓器移植自体に対する多くの人たちの理解が得られなければ、ドナーが増えるなど、夢のまた夢である。
*1:臓器移植法改正、「D案」国会提出…年齢制限を撤廃(読売新聞)http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090515-OYT1T00882.htm
*2:D案に「憤り」と緊急声明―臓器移植患者団体連絡会など(医療介護CBニュース)http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090514-00000012-cbn-soci
プロフィール
赤木智弘(あかぎ・ともひろ)…1975年生まれ。自身のウェブサイト「深夜のシマネコ」や週刊誌等で、フリーター・ニート政策を始めとする社会問題に関して積極的な発言を行っている。近著:「「当たり前」をひっぱたく」。
眼光紙背[がんこうしはい]とは:
「眼光紙背に徹する」で、行間にひそむ深い意味までよく理解すること。
本コラムは、livedoor ニュースが選んだ気鋭の寄稿者が、ユーザが生活や仕事の中で直面する様々な課題に対し、「気付き」となるような情報を提供し、世の中に溢れるニュースの行間を読んで行くシリーズ。