【赤木智弘の眼光紙背】ムダな医療とは、何のことだろうか? - 赤木智弘
※この記事は2009年04月30日にBLOGOSで公開されたものです
少し前になるが、興味深い記事を発見した。2009年1月、大分の造船所でタラップが落下し、作業員26人が死傷した労災事故が起きた際に、救急隊員が実施した「トリアージ」をめぐる記事である。(*1)
「トリアージ」とは、医療設備が間に合わないほどの大規模な災害などがあった時に、「誰を優先的に治療するか」をスムーズに決定し、1人でも多くの人を救うために効率的な治療順番を決定するための分類方法である。
日本においては書式が統一されており、災害においては患者は4色のタグで分類される。緑が救急搬送の必要がないもの。黄色が重篤ではないが十分な処置を必要とするもの。赤が重篤で早急な処置を必要とするもの。そして、黒が死亡、もしくは救命不可とするものである。救命活動における優先順位は、赤→黄色→緑→黒、となる。
もちろん、そうした分類が不適切だというつもりはない。多くの人間が負傷しており、医者やベッド、そして医療設備自体に手が回らない時に、1人でも多くの人間を救おうとすれば、効率的な治療を推し進めるしかない。
その一方で怪我をした側の心情としては、死んだからといってすぐに諦めないで欲しいし、また緑タグでも、早く治療を受けたいというのは、その通りだろう。この記事には、黒タグをつけられた同僚を気づかう患者の立場と、効率的な医療を行おうとする救急隊員の立場の違いが、明確に示されている。それはどちらが正しいか否かということではなく、医療側の都合もあれば、患者側の都合もあるということでしかない。
しかし、最近はこうした医療問題に対して「患者はわがままを言うな」という、社会的な圧力が強まっているように思う。
以前、救急車の悪質な利用が問題視されたことがあった。
一部の人が軽微な怪我や、通院を目的に救急車を利用しているという報道が立て続けに流れ、「悪質な利用に対して救急車を有料化するべきだ」などというお題目が盛んに唱えられた。
もちろん、確信的に悪質な利用をしているような、ごく一部の例外はあるとしても、普通に考えてみれば、医学の知識のない一般の人が「この状態が、救急車を呼ぶ必要のある状態か否か」を正確に判別できると考えるのは無理があり、素人判断で重篤な症状を見過ごす可能性を考えれば、救急車の有料化など、国民の命を危険に晒す暴言にすぎない。ところが世間では、これに賛同する人が比較的多かったように思う。
そう考えると、医療そのものに対して「効率的で低コストな医療」という要請が、医療の側からも、大衆の側からもされていることが分かる。そして「診療報酬の引き下げ」や「後期高齢者医療制度」を推進する国の側も、もちろんである。
しかし「効率的で低コストな医療」などというものが本当に可能なのだろうか?
もし本当に「効率的で低コストな医療が達成できる」と確信し、それを目指すのであれば、至る結末は、国民に死や不健康を受け入れさせ、苦悩を強いる事にしかならないように、私は思う。
災害現場では「既に手遅れなんだから、一番最後」と、生死の間際をさまよう家族や友人の治療を拒否され、急に体のしびれや、急激な痛みを感じても、果たしてそれが救急車を呼ぶに値するのか否かを、正確に自己判断しなければならない。果たしてそれは、本当に国が国民に提供するべきレベルの医療なのだろうか?
むしろ、最初から医療に対するムダなコストを許容し、そうした中でズルをする人の存在をも前提にするほうが、いいのではないか。
80年代から90年代にかけて、行政のさまざまな「ムダ」が指摘されてきた。そうした中で「ムダ遣いは悪、節約は正義」という考え方がはびこり、行政の仕事が民間事業と同じように「黒字か赤字か」でその成果が判断されるようになった。
しかし、生命を守る医療を「これはムダ、これはムダではない」と判別することが可能だとは、私には思えない。別の側面で考えれば、防衛費だって同じことがいえる。国民の生命を守るために、ミサイルや戦闘機にかける金を、一方的に「ムダ」だと強弁することができるだろうか?
人間は機械のように正確に動くわけではなく、そもそもムダを内包した存在でである以上、人間を相手にする度合いが大きければ大きいほど、ムダは増える。そのなかでも医療は、人間の生命そのものを扱うだけに、もっともムダと近しい職業の1つであろう。
ならば、そこに一見ムダに見えるコストがあったとしても、本当にムダかどうかの判別は極めて困難である。そのことを自覚しなければならない。
*1:「トリアージ」進まぬ周知 災害、事故時の治療優先順位付け 医師「人命救助 協力を」(西日本新聞)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/84439
プロフィール
赤木智弘(あかぎ・ともひろ)…1975年生まれ。自身のウェブサイト「深夜のシマネコ」や週刊誌等で、フリーター・ニート政策を始めとする社会問題に関して積極的な発言を行っている。近著:「「当たり前」をひっぱたく」。
眼光紙背[がんこうしはい]とは:
「眼光紙背に徹する」で、行間にひそむ深い意味までよく理解すること。
本コラムは、livedoor ニュースが選んだ気鋭の寄稿者が、ユーザが生活や仕事の中で直面する様々な課題に対し、「気付き」となるような情報を提供し、世の中に溢れるニュースの行間を読んで行くシリーズ。