※この記事は2009年02月05日にBLOGOSで公開されたものです

昨年末に、バクダッドで記者会見中だったブッシュ大統領(当時)に靴を投げたイラク人記者が、イラクで英雄視されている。
そうした流れの中、1月29日、イラク北部の孤児院で「栄光と寛容の像」という名前の、件の靴をかたどった像が立てられた。(*1)
しかし、わずか2日後、イラク政府が「公共施設に政治的な主張を含むものを置くべきでない」ということで、撤去を命じたという。(*2)

靴を投げつけたイラク人記者が、英雄視されることへの賛同と問題点については以前に触れた(*3)ので、ここでは扱わないとして、このニュースを聞いて思うのは「なんで、政治的主張が悪いのだろう?」という点である。
公共の場に政治的な偶像が存在することが悪いのであれば、イラク傀儡政権の盟主国であるアメリカに存在している、ラシュモア山国立記念公園にある4大統領の顔はすべて撤去されるべきだろう。
あと、この「政治的主張が悪い」という言葉を、最近よく聞いたなぁ、と思っていたのだが、それは年末年始にかけて、日比谷公園に設置された「派遣村」の人たちに対して投げつけられていた言葉だった。
曰く「共産党系の労働団体が入り込んで、政治的な主張をしているから、派遣村の活動はおかしい」と言うのだ。

しかし、労働者が政治的な主張をしたり、政治団体に入るのがおかしいというのであれば、経営者たちが政治献金をして政権に取り入ることは、経営側による政治活動ではないのだろうか?
経営者たちは政治に取り入り、派遣労働法などの改正を通して、いつでも使い捨てにできる非正規労働者を増やしてきたのであり、そうした動きに対抗する立場の人間が政治的に問題を考えようとすると「政治的だ!」とヒステリックに非難する言論というのは、ずいぶん政治的だなぁと思ってしまう。
靴の像の撤去だって、政治的な政府が政治的な判断によって撤去を命じているのであり、撤去された像の後に、像そのものは残らないが、その経緯はその場所に結びつき、政府の政治的主張と、孤児院の人たちや、この像に関わったすべての人たちの政治的主張は、その場所に数十年は残り続ける。

そもそも、私たちが「国家」というまとまりの中に暮している以上、それは政府という「政治」が充満した社会の中で生活しているということである。ならば、私たちの主張や意思に政治が絡まないなんてことはない。
政治的主張というのは、いわば人間の主張であり、政治的だからと非難するのであれば、それは言論の弾圧にほかならない。
各個が利益を主張する中で、政治的に主張を行い、そればぶつかり合いながら社会がより良くなっていく。
政治的主張とは、個人が社会に対する責任を持ち、社会にアクセスするために必要な「信念」に他ならないと、私は考えている。


*1:靴の像:ブッシュ氏に靴投げつけた記者たたえ完成 イラク(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/world/america/news/20090130k0000e030012000c.html
*2:イラク:「靴の像」早くも撤去…政府「政治的主張を含む」(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/world/news/20090201k0000m030045000c.html
*3:赤木智弘の眼光紙背 この一年で日本社会は何を学んだのだろうか?(livedoor ニュース)
http://news.livedoor.com/article/detail/3952363/

プロフィール
赤木智弘(あかぎ・ともひろ)…1975年生まれ。自身のウェブサイト「深夜のシマネコ」や週刊誌等で、フリーター・ニート政策を始めとする社会問題に関して積極的な発言を行っている。近著:「若者を見殺しにする国画像を見る」

眼光紙背[がんこうしはい]とは:
「眼光紙背に徹する」で、行間にひそむ深い意味までよく理解すること。
本コラムは、livedoor ニュースが選んだ気鋭の寄稿者が、ユーザが生活や仕事の中で直面する様々な課題に対し、「気付き」となるような情報を提供し、世の中に溢れるニュースの行間を読んで行くシリーズ。