※この記事は2009年01月21日にBLOGOSで公開されたものです

1月15日、知的障害者の生徒が県立の普通高校に入学できやすくするために配慮を求める要望書を、指摘障害者の家族会が、愛知県教委に提出した。(*1)
中学時代の仲間が多い地元普通高校へ通わせたいが、健常者と同じテストでは点が取れないため、配慮をして欲しいと言うことらしい。

確かに、障害者であっても他の人と同じ場所で社会生活を送る権利はある。学校というのは社会生活の場であって、障害者だからといってあたりまえの社会的な生活の場から隔離されることがあってはならない。
しかし同時に考えなければならないのは、高校入学というのは生徒達にとっては、受験勉強によって勝ち取った、生涯に渡って有効な「権利」であるということだ。
そうした権利を、勉強はしてるかもしれないが十分な能力のない知的障害者が、一生懸命勉強して入学に必要な能力を得た健常者とまったく同じように得るということに、不公平感を感じるのも道理だと言える。

愛媛・知的障害児の家族と理解者の連絡会のサイトに、要望書を提出した時の事が書かれている。(*2)
この中でひどかった例として「特別措置の中身は、県立高校の合格点を下げて入学させてくれということなのですか。」と質問したマスコミがあったと記しているが、これこそ、高校を「社会生活の場」として考えている連絡会と、「受験を受けて権利を勝ち取る場」として考えているマスコミというよりも、多くの健常者の考え方が完全に離反している、典型的な例と言えよう。

こうした問題が起きるのは、子供と社会という繋がりにおいて、高校という存在があまりに大きすぎるからであると、私は考えている。
連絡会の人たちは、「養護学校ではなく、普通高校へ行かなければ、我が子が十分な社会性を得ることができない」と考えているのだろう。
また、健常者の親や子供自身は、「入学の権利を勝ち取って、高校へ行かなければ、十分な社会性を得ることができない」と考えているのだろう。
高校という生活の場を通した、社会性へのアクセス権を「基本的な権利」として考えるのか「勝ち取った権利」として考えるのかで、立場は違っているのだが、どちらにしても「(健常者の通う)高校へ行かなければ、将来にわたって苦労することになる」と考えていることには違いがない。
そして、それは極めて正しい認識であり、だからこそこうした対立が産まれる。

学校化の弊害というと、もっぱら「学歴社会」ということが言われるが、こうした「学校に入らなければ社会性を得られない問題」もまた、学校化した社会が必然的に陥る道なのである。

*1:知的障害者も普通高へ(asahi.com) http://mytown.asahi.com/ehime/news.php?k_id=39000000901160002
*2:1月15日県教委高校教育課へ 特別措置について要望しました(愛媛・知的障害児の家族と理解者の連絡会) http://home.e-catv.ne.jp/palet6/s3-3.htm

プロフィール
赤木智弘(あかぎ・ともひろ)…1975年生まれ。自身のウェブサイト「深夜のシマネコ」や週刊誌等で、フリーター・ニート政策を始めとする社会問題に関して積極的な発言を行っている。近著:「若者を見殺しにする国画像を見る」

眼光紙背[がんこうしはい]とは:
「眼光紙背に徹する」で、行間にひそむ深い意味までよく理解すること。
本コラムは、livedoor ニュースが選んだ気鋭の寄稿者が、ユーザが生活や仕事の中で直面する様々な課題に対し、「気付き」となるような情報を提供し、世の中に溢れるニュースの行間を読んで行くシリーズ。