六本木と竹芝…男の2つの高級マンションのうち、ひとつの部屋にしか呼ばれない女。そのワケとは
「変わってやる！」
そう思った瞬間から、人生はアップデートされていく。
10年前の恋愛の傷から、着飾ることをやめノーメイクで生きてきた春野菜月（29）。
そんな彼女が、変わることを決意したら―？
◆これまでのあらすじ
英語学習アプリの運営会社の経営者・大翔は、なかなか「付き合おう」と明言してくれない。疑心暗鬼になった菜月は、大翔のカバンをこっそりチェックした。そして、彼の免許証を見てあることに気づく。
ガラガラ…
大翔がバスルームから出る音が、聞こえた。
菜月は、跳ねるような鼓動を感じながら、大翔のカバンのチャックを閉める。
勝手に中身を見たことがバレないように、最初と同じように壁に立てかけた。
手は、小刻みに震えたままだ。
― なんで？どういうこと？
菜月が見たもの。それは、大翔の免許証の住所だ。
今いるのは六本木のマンションなのに、なぜか大翔の免許証の住所欄には「港区海岸一丁目」と書かれていたのだ。
引っ越しをしたのかと思って裏面を見たが、住所更新履歴はなにも残されていなかった。
― なら、この部屋は自宅じゃないの…？
リビングのソファに座りながら考えた。
最初に呼ばれたときから、やけに綺麗な部屋だとは思っていた。
今思えば、綺麗すぎて不自然だ。生活感がほとんどないと言ってもいい。
― もしかして家が2つあるということ？
「はーあ、気持ちよかった」
そのとき大翔が、氷の入ったグラスを持ってリビングにやってきた。ペリエを注ぎ、ゴクゴクと美味しそうに飲む。
そんな気楽な様子を見て、菜月はつい責めるような口調で言った。
「大翔さん」
「んー？」
大翔はのんきな返事をして、リモコンを手に取りテレビをつけた。
「このお部屋に住んで、長いんですか？」
「…なぜ？」
ようやく視線を菜月に向けた大翔は、少し固まってから「まあ、そこそこかなあ」と言った。
「そうなんですか。すごい綺麗だなーと思って。生活感があまりないというか」
「…どうかな」
大翔は、テレビに視線を戻した。
― なんか、誤魔化されてる？
ついさきほどまで、勝手に大翔のカバンを見てしまうまで、菜月は明るい気持ちでいっぱいだった。
現状の関係に不安はあったが、近いうちに大翔と結ばれるような輝く予感で満ちていたのだ。
しかし今、ようやく冷静になる。
― 私は、大翔さんのいい面だけを見ようとしすぎているわ。
「やっぱり私、ハッキリさせたいです。私は、大翔さんの恋人だと思ってていいんですか？」
いつまでも関係性を明言しない大翔の、ある秘密とは
「私、言葉が欲しいんです。いちいち言葉にしないのが大翔さんのスタイルかもしれませんが、私はハッキリと言葉で確認したい」
大翔は少し眠そうな目で菜月を見て、笑った。
それから両手を広げる。
「大丈夫だから。ねえ、おいで」
「…そうじゃなくって」
菜月はソファに座ったまま意地でも動かなかった。必死で、反論する言葉を探す。
…しかし気づけば視界には天井が映っていた。大翔に押し倒されたのだ。
氷のように冷たい唇が、首筋にあたった。
◆
大翔の免許証の謎について、電話で茜に報告した。しかし、一向に理由がわからない。
― もしかして海岸一丁目にある家は、本命の子と会うための家だったりして…。
そう考えた菜月の頭に浮かんだのは、史奈だった。
― あの子が本命の可能性はあるわよね。
先日牽制するように渡された、モスグリーンの靴下を思い出す。
― 連絡してみるか。
ほとんど開いていなかったFacebookを久々に開いた。大翔の会社の人をたどって、ようやく史奈のアカウントを発見する。
「菜月です。明日、お茶しませんか？」
Messengerの返事は、すぐに返ってきた。
明治神宮前のスターバックスのテーブル席につくと、史奈は「ごちそうさまです」と言ってホワイトモカに口をつけた。
「史奈さん」
「はい？」
「早速聞いていいですか？…大翔さんとは、どういう関係なの？」
「大翔くんと？」
ペーパーで口をトントンと叩くように拭ってから、彼女はにっこりした。
「恋人ですよ」
それから彼女は突然小指を立て、うっとりと眺めた。蝶をモチーフにしたピンキーリングが輝いている。
「これね、大翔くんからもらったの。私、先週誕生日だったんですよ」
「そう…」
心臓が急に重たくなる。
― やっぱり、史奈が本命だったわけか。…私は浮気相手だったのね。
菜月はガックリと肩を落とし、うつむきながら口を開く。
「じゃあ史奈さんは、いつも海岸一丁目の家に？」
「海岸一丁目って？…あ、竹芝のこと？そっちは『本当の家』よ。私が行くのは、いつも六本木の家」
史奈の言う「本当の家」とは一体…
「…本当の家？」
「ええ。奥さんとの家」
さも当然という顔で史奈は言い、ホワイトモカにまた口をつけた。
菜月は、口を開けたまま固まる。
「え…？やだ菜月さん、もしかして知らなかったの？大翔くん、だいぶ前に結婚してますよ」
「…」
「なーんだ。既婚者って知ってて狙ってるのかと思ってました。だからライバル視してたのに」
― 待ってよ。そんなの聞いてないわ。
やけに喉が乾いた。アイスコーヒーを一気に飲み干す。
「…もしかして菜月さんって、奥さんがいる男の人とは恋愛しないタイプ？」
― この人はなにを言っているんだろう！
菜月は思わず険しい表情で史奈を見た。
「当然でしょ。既婚者となんて」
「ふうん」
感心したようにうなずいてみせた史奈に、説教をしたい気持ちがフツフツと湧いてきた。
「史奈さん、既婚者と知ってて大翔さんと関係を持ってるのよね？そんなのダメでしょう」
「…どうして？」
― どうしてって。
改めて理由を聞かれ、菜月は考える。
いつか自分が結婚したとして、相手が誰かとコソコソ関係を持っていたら…。嫌だ。そんなの、不愉快極まりない。
「それは…奥さんへの冒涜にあたるからよ」
その言葉に、史奈は案外あっさりと「それはそうね」とうなずいた。
「でもね菜月さん。奥さんに原因があるかもしれないわ」
「原因？」
「ええ。たとえば、結婚したときほど魅力的じゃなくなってしまったとか」
史奈は、ふっと嬉しそうな表情になった。その視線の先には、ピンキーリングがある。
「そんな…どんな理由があってもだめよ。絶対しちゃいけないことだよ」
厳しく言っても、史奈はピンキーリングからまったく目を逸らさなかった。
そして、ややあってからため息をつくように言う。
「真面目なのね。いいことだと思います」
バカバカしくなってきた。
席を立とうとしたその瞬間、史奈はいつもよりも随分と低い声でつぶやく。
「じゃあ、菜月さんは降りるわね？」
「はい？」
「大翔さんとの関係は、おしまいにするんですね？」
「当たり前よ」
「よかった」
マグカップを両手で包んだ史奈は、大きな目で菜月をジッと見つめる。
「嬉しいわ。ずっと、菜月さんの存在が恐怖だったの」
「はい？」
「奥さんなんか、ライバルですらない。だって不倫されている時点で負けみたいなものでしょう？でも私、他の女の子にだけは負けたくなかった」
そう言ったきり、しばらく史奈は、何もない木製のテーブルを睨みつけていた。
「…私は、一生大翔くんの1番でいたいの。そうじゃないと、生きていけないかもしれない」
それから、頬をゆるませて笑う。
「だから菜月さんが諦めてくれてよかったわ。もう大翔くんに近づかないでね」
気づけばびっしょりと手汗をかいていた。
大翔へのまっすぐな恋心は、木っ端微塵に砕け散っている。
― 頑張って好かれようとしてきたのが、バカみたい。
菜月はしばらく席を立つ力が出ず、史奈の嬉しそうな顔をぼんやりと見つめていた。
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幸せそうな史奈に対して、ある思いが湧き上がる
