栗原心平(寺澤太郎(大和書房『栗原家のごはん』)より転載)

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「母は仕事で留守にするときも多かったけれど、僕らの好きなおかずを必ず用意してくれていたので、寂しい思いをした記憶はないんです」

【画像】母・父から受け継いだ「わが家ごはん」レシピの数々

いつも食卓には母の料理、今では食事担当

 ベストセラー『ごちそうさまが、ききたくて。』を出版して以降、多方面で活躍するようになった栗原はるみさん。多忙な生活だったが、家族の食事は作ってから出かけたそう。心平さん自身も現在、会社の経営者、そして料理家として忙しい日々を過ごしているが、食事の支度は欠かさないという。家族構成は奥さま、息子さん、猫2匹。

「家事の中で僕は食事を担当しているので、一緒に食べられないときでも支度をしてから出かけます」

 コロナ禍で仕事がらみの会食が減り、家族で食卓を囲む機会も増えた。

「これまでは子どもと妻が当日食べ切る分量で用意していましたが、最近は僕も一緒に食べられるので、残り物も活用しつつ、献立を考えるようになりました。翌日のためにあえておかずをちょっと残しておいたりと工夫してます」

 母の背中を見て育ち、今は自身の家族の食事を作る心平さん。いつから料理を始めたのか聞いてみると、そのきっかけになったのは意外にもアニメ番組だとか。

気づけば朝食担当になっていた少年時代

「日曜の朝、子ども向けのアニメ番組がありますよね。あれを楽しみに1人で早起きをしていたんです」

 ユーチューブはおろか、録画機器さえ珍しかった時代、好きな番組はリアルタイムで視聴しなければならなかった。

「僕だけ早起きしているので、朝ご飯までにめちゃくちゃお腹がすくんですよ。休みの日だから親もなかなか起きてきてくれなくて。もう自分で作ろうって思って(笑)」

 朝の空腹に耐えかねた心平少年は、当時、朝食の定番だったキャベツのコンビーフ炒めの作り方を父・玲児さんから教わった。そこから少しずつレパートリーを増やし、気づけば栗原家の朝ご飯担当になっていたという。

下田で過ごした夏の思い出

 少年時代、長い夏休みの間、共働きだったご両親に代わって心平さん、姉・友さんの面倒を見てくれたのは母はるみさんのご両親だった。静岡県下田にある祖父母宅の隣には、祖父が経営していた印刷所の工場があった。

「インクの匂いがする昔ながらの印刷工場で、活版印刷用の活字を選ばせてもらったり紙が裁断されるさまに見惚れたり、日がな一日飽きもせず時間を過ごしていました」

 心平少年にとっては、印刷工場が格好の遊び場。作業の手伝いをすると大人たちの休憩時間に交ぜてもらえた。

「僕も大人に交ざって一緒にお菓子を食べながら談笑したり、繁忙期じゃなければ納品のトラックに乗せてくれて、帰りに釣りに連れて行ってくれたこともありました」

祖母が作る魚料理ですっかり魚好きに

 祖父母宅の食卓は下田という土地柄、新鮮な魚料理が多かった。中でも思い出深いのがアジの押し寿司。

 お盆になると下田では「下田太鼓祭り」という夏祭りが開催され、大勢の人がやってきて街は大変なにぎわいだった。太鼓祭りの時期、祖母宅に親戚たちが遊びにくると、祖母は決まってアジの押し寿司を作って振る舞った。

「僕が堤防からサビキ釣り(釣り針をいくつも付けて魚を釣る方法)でアジを200匹ほど釣ってくるんです」

 釣りたての新鮮なアジを手際よく捌いて大量の押し寿司を作ってくれたという。

「祖母の料理はどれもおいしかったけれど、アジの押し寿司は特に絶品だったんです。僕が渋い味好みだったことを差し引いても、最高においしかった」

祖母の味を再現するのに難航

 近著『栗原家のごはん』で祖母との思い出の一品「アジの押し寿司」を紹介することになった。本のテーマとしてはなくてはならないものだったが、問題はレシピ作り。

「まず第一関門は、ちょうどいいサイズのアジを探すことでした。大きすぎても小さすぎてもダメなんです。当時、僕が釣ってきたアジは小ぶりだけれど身がキュッと締まっていてうまかった」

 新鮮な魚介がいつでも手に入る下田と違ってここは東京。どうにかツテを使い、サイズ感もちょうどよく新鮮なアジを手に入れたときは安堵した。次なる壁はレシピ作り。

「祖母がアジを捌くのを手伝ってはいたけれど、作り方は直接教わっていなかったんです。実は祖母の味は母でさえたどり着けないほど再現が難しいんです……。非常に難儀しました(笑)」

 頼りにしたのは母と祖母の共著と、自分の舌の記憶。何度も試作をし、試行錯誤してようやくレシピは完成した。

 料理撮影の際、姉の友さんにアジの押し寿司を作ると伝えたら「私の分も取っておいて」と頼まれたとか。それだけ栗原家にとっては特別な思い入れのある料理なのだ。

母に料理を細かく教わったことはない

 人気料理家である母のもとに生まれ、自身も料理家になった心平さん。料理の英才教育を受けて育ったのだろうか。

「料理に関してはひとつひとつを習ったことはないんです。ただ、日々のお手伝いはよくやっていました。お米をといでおいて、大根おろして、薬味を切っておいてなど、母から言われたことをこなしていたので、料理を手伝っているという感覚もなく、ごく自然な流れで台所には立っていたんです」

 はるみさんが不在のときは1人で料理に挑戦した。

「きっとこうやって作るのかなと子どもながらに考えて。実践あるのみでした(笑)」

 完成形から調理過程を逆算して作るスタイルだっただけに失敗も多かった。初めて作ったエビフライは、生のエビにパン粉を直接つけ、そのまま揚げたそう。失敗した際に両親から助言を受け、徐々に改良していった。

「火を使うことにも抵抗はありませんでした。そのころわが家の台所は電熱コイル型のコンロだったんです。火が出ないぶん、両親も安心だったんでしょう。小学校高学年のころには、揚げ物でも何でも作るようになっていました」

母の作った料理を批判したことも

 母親のはるみさんは、家族に料理の感想をよく求めた。基本的にどの料理もおいしかったが、時には辛辣な意見を言ったこともある。

「たしか小学校高学年ごろだったと思うんですが、蒸した豚肉に青じそのソースがかかった料理を出してくれたんです。なんだか味がぼやけていたので『何これ……全然おいしくない』と批判した記憶があります。そのときの味、いまでも覚えてます(笑)」

 はるみさんは家族の意見をしっかりと受け止め、改良する手間を惜しまなかった。心平さんが酷評した料理も、のちに、はるみさんの代表作『ごちそうさまが、ききたくて。』の掲載レシピに仲間入りした。

「僕らが子どものころ、母の料理を好き勝手に批評していたように、僕の料理も息子からいろいろと言われる日がくるのかもしれません(苦笑)」

毎日食べている味が「家の味」になる

『栗原家のごはん』を出版した心平さんに、私たちにも「わが家の味」を残すためにできることはあるのか聞いた。

「あえて何かアクションを起こす必要はないと思います。毎日食卓に料理を出していれば、家族にはすでに伝わっているはずですから」

 例えばみそ汁がいい例だと続ける。

「昆布やにぼしからだしをとろうと市販の顆粒だしを使おうと、その家で食べられているみそ汁が『その家のみそ汁』。母のみそ汁もだしやみそもさまざまで、いろんなみそ汁が出てきましたが、どれを食べても『母のみそ汁』なんですよね」

 具の取り合わせだったり、火の入れ具合だったり、作る人の何かしらかの工夫がみそ汁には込められている。100人いれば100種類のみそ汁ができる。

「時々、『私ははるみさんの味で育ちました』と僕に声をかけてくださる人もいますが、レシピは母のものだったとしても、料理は作った人の味に自然になっているはずですし、それがやがて『家の味』になっていくんだと思います。そして、その味の記憶が子どもに引き継がれていく。それが続いていくことが『味を継ぐ』ということなんだと思います」

 特別なものではなくてもどこか心がほっとする味、それが舌の記憶している「家の味」なのだろう。『栗原家のごはん』で紹介したレシピがどこかの家庭で定番料理となり、その家の味になる。暮らしを紡ぐ役に立てるなら、それ以上の喜びはないと心平さんは少し照れながら言った。

母、栗原はるみのこと。

 母は、僕が小さなころから完璧主義。でも、ちょっと抜けているところもあって、わが母ながらチャーミングな女性です。父とは真逆な性格で、栗原家は激しい父と姉、穏やかな母と僕という二極化でありながらも、正反対すぎてバランスが取れていたのだと思います。(中略)

 基本的に母は、僕が子どものころからあまり変わらない人だと思います。自分を犠牲にしても家族が幸せになれば、それで自分の幸せに還元できる人です。実際にベストセラーになった『ごちそうさまが、ききたくて。』と『もう一度、ごちそうさまがききたくて。』は、栗原家のリアルな食事でした。手間を惜しまず、さもない工夫やほんのひと手間を掛けるだけで食卓や暮らしが豊かになる。そんな母の真実がベストセラーになった理由ではないかと思います。

 2019年8月に父が亡くなって、母は、一時自分の生きる意味を見失っていました。やはり母の仕事や暮らしへの意欲は、父や家族の幸せだったんですね。

 しばらくは、泣いている母を傍らで支えながら、ただただ時が過ぎるのを待っていました。どんなにやさしい言葉をかけようと、父を失った悲しみは母にしかわからないからです。最近になってやっと元気を取り戻しつつあるような気がします。周りの大勢の人に温かく見守られながら、自分のいる場所をきちんと整理しつつあるように思います。
(大和書房『栗原家のごはん』より一部抜粋)

料理をつくるときに大切にしていること。

 料理をつくるということは、喜んでもらうということ。独りよがりでは、喜んでもらえません。僕はプロの料理人ではなく、家庭料理を考える人です。家庭料理で一番大事なのは、相手のことを慮ることです。ふだんの好き嫌い、味の濃淡、体調や季節性を全部加味したうえで、家族が今、どういう状態にいるか確認して料理をつくるようにしています。

 難しく聞こえますが、ふだんから家族を見ていれば自ずとわかることで、夕食の献立を考える際に、いつも考えながら進めています。(大和書房『栗原家のごはん』より一部抜粋)

プロフィール:栗原心平
料理家。株式会社ゆとりの空間代表取締役社長。会社の経営に携わる一方、幼いころから得意だった料理の腕を生かし、料理家としてテレビや雑誌などを中心に活動。

<取材・文/飯田美和>