戦車や軍用車両で進撃するドイツ軍の電撃戦はよく知られています。しかし実は、同様な戦いを旧日本軍も太平洋戦争初期に行っています。しかも、そこで使用されたのは「自転車」。その舞台になったのはマレー半島でした。

太平洋戦争初戦の本命はマレー作戦

「太平洋戦争の始まりは?」と聞かれたら、多くの人は旧日本海軍によるハワイの真珠湾攻撃と答えるでしょう。しかし、実際には、1941(昭和16)年12月8日の現地時間で早朝から朝にかけて、真珠湾への攻撃だけでなく、フィリピンにあるアメリカの軍事施設に対する空襲、そしてイギリスの植民地であったマレー半島への上陸、この3か所に、ほぼ同時で行われたというのが正しい見解となります。

 加えて、上記の「三本柱」となった作戦のうち、本命とされたのはマレー半島への上陸、すなわち「マレー作戦」でした。実はこの作戦、その後、日本版「電撃戦」とも呼ばれるようになりますが、なぜそうなったのでしょうか。カギは戦車と自転車、このふたつがどのように作戦に用いられたのか、ひも解きます。


コタバルに上陸した旧日本陸軍のマレー作戦部隊(時実雅信所蔵)。

 そもそも、太平洋戦争の開戦前、いよいよアメリカとの戦争が避けられなくなったと考えた日本は、石油や鉱物資源が豊富な蘭印(現在のインドネシア)の確保を目標にしていました。ただ、それには障害がありました。イギリスとアメリカが植民地をもつ東南アジアとフィリピンに駐留する連合軍です。まず、これらを排除する必要がありました。

 蘭印を植民地にしていたオランダは、前年の1940(昭和15)年にドイツの電撃戦で本国が占領されています。フランスも同様で、海外の植民地は現地の総督が独自に連合国(連合軍)につくか、中立を保つか判断しており、蘭印は連合国に加わっていました。

 戦前の旧日本軍は蘭印を占領したら持久戦に持ち込み、ハワイからアメリカ艦隊が反撃のために出撃してきたら、日本近海で決戦に臨む計画でした。それを旧日本海軍の連合艦隊が、ゴリ押しする形で開戦と同時にアメリカ艦隊の拠点であるハワイ真珠湾を攻撃することに変更したのです。

 つまり、本来はマレー半島とフィリピンの攻略が主目的で、真珠湾攻撃はあとから付け加えられた、いわば付属的な作戦だったといえるでしょう。

日本軍が自転車を大量使用できたワケ

 当時、イギリスは北ボルネオとマラヤ(現在のマレーシア)、シンガポール、ビルマ(現在のミャンマー)に植民地をもっていました。マレー作戦は、南シナ海に面した街コタバルに上陸し、マレー半島を縦断してイギリス軍最大の拠点だったシンガポールを占領するのが目標です。踏破距離は約1100kmにおよびますが、これは東京から博多までの距離に相当します。

 では、なぜマレー作戦が日本版「電撃戦」といわれるのか。電撃戦といえば、ドイツ軍のポーランドとフランスへの侵攻を指すことが多いです。これらドイツ軍の侵攻は、航空機の支援を受けて、戦車と軍用車両が電光石火のごとく進撃するイメージがありました。ドイツ語の「ブリッツ(電撃)クリーク(戦い)」が由来で、稲妻のような早業で短期間に敵軍を撃破する戦いを意味します。

 しかし、これら電撃戦が行われた当時、ドイツ軍には主力のIII号戦車はまだ数が少なく、それよりも小型で性能も劣るI号戦車やII号戦車、チェコスロバキア製の軽戦車などが中心でした。また、戦車と協同する歩兵についても、車両移動できたのはごく一部で、多くは徒歩での移動でした。

 さらに、ドイツ軍が行ったポーランド侵攻も、ベネルクス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)を経由してフランスに侵攻した西方電撃戦も、目標はドイツの隣国であるため移動距離はマレー作戦に比べてずっと短いものでした。

 逆にいうと、旧日本陸軍はマレー作戦において、電撃戦の本家ドイツよりも長距離を、ドイツ軍よりさらに心もとない装備で素早く進撃するという難題に臨まねばならなかったといえるでしょう。

 旧日本陸軍にもトラックなどの軍用車両を多数装備した機械化部隊はあったものの、マレー作戦に投入予定であるすべての歩兵部隊を移動させられるほどの能力はありません。そこで陸軍が目を付けたのが自転車でした。

 戦前から日本製の自転車は東南アジアに数多く輸出されていました。壊れにくいうえに、修理のための部品も国産だと調達が容易なため、上陸作戦後に現地で徴用した自転車を歩兵の移動に転用したのです。なお、この自転車で移動する歩兵は「銀輪部隊」と呼ばれました。

上陸から2か月ほどでシンガポールを攻略

 また、数は多くありませんでしたが、当時の主力だった九七式中戦車と九五式軽戦車を中心にした戦車部隊が前面に立ち進撃していきました。日本の戦車はアメリカやイギリスに比べて脆弱との評判がいまでは定着しているものの、太平洋戦争初期は戦力として十分使えるレベルでした。

 マレー半島はイギリスが幹線道路を整備しており、旧日本軍にとって戦車部隊と銀輪部隊、それに軍用車両の移動に都合が良かったといえます。

 イギリスはヨーロッパでドイツと戦っており、本国から遠く離れた東南アジアに増援できる余裕はありませんでした。代わりにイギリス連邦軍として、インド軍やオーストラリア軍が現地へ派遣され、戦争に備えていました。

 太平洋戦争は長期化による消耗戦で日本が負けたといわれますが、戦争が始まった当初は連合軍と戦力が拮抗していたと見ることができます。


クアラルンプールの市街に入る旧日本陸軍の銀輪部隊(時実雅信所蔵)。

 旧日本陸軍のコタバル上陸から2か月後の1941(昭和16)年2月8日に、シンガポールの攻防戦が始まります。シンガポールは要塞化されているだけでなく、東アジアにおけるイギリス海軍の拠点となるセレター軍港もありました。しかも、ここは戦艦の修理も可能なドックを有していました。これらの理由から、イギリスにとってシンガポールの陥落はアジア地域の死活問題に直結するものだったといえます。

 戦車部隊と銀輪部隊によってそのシンガポールが陥落したのは、攻防戦開始から1週間後の2月15日でした。

 その後、旧日本軍の占領下に置かれたシンガポールは終戦まで「昭南島」と呼ばれます。日本はマレー半島に続いて、蘭印とフィリピン、ビルマの戦いで東南アジアから連合軍を排除し、太平洋戦争は次の段階に移りました。ちなみに、マレー作戦の原動力となった戦車と銀輪部隊はフィリピンの戦いでも投入されています。

 その後、中国を除いて太平洋の戦いが海戦と島嶼部の攻防戦に移ったことで、何百kmも踏破する立地条件がほぼなくなり、同様な作戦を実行する機会は訪れませんでした。

 こうして見てみると、マレー半島とフィリピンの戦いは、戦力と立地条件の双方に恵まれていたからこそ可能な、数少ない日本版「電撃戦」だったといえるでしょう。