知られざる「日本人初エースパイロット」の足跡 義勇兵バロン滋野フランスの空を守る
日本人初のエースパイロットはWW1期、フランス陸軍に誕生しました。いわゆる義勇兵です。当地で広く知られたその名は、しかし日本の航空史にはあまり見受けられません。偉大なるヒコーキ野郎、バロン滋野こと滋野清武の半生を追います。
日本人初の撃墜王はフランス軍大尉
2022年2月に勃発したロシア・ウクライナ戦争にて、在日ウクライナ大使館が日本人義勇兵を募ったことが話題となっています。これに対し70名が志願したという報道もあり、これに対し与党幹部からは「絶対やめていただきたい」などといった声が出ています。
外国軍で戦った日本人義勇兵はけっして少なくはなく、ひょっとしたらいまも世界のどこかで戦っているかもしれません。なかには江戸時代前期の武士、山田長政のように、歴史に名を残した人物も存在します。
滋野清武も搭乗したスパッドS.VII重戦闘機。写真はシゴーニュ戦闘航空群において滋野の同僚だったギンヌメール大尉(撃墜54機)専用機を再現したもの(関 賢太郎撮影)。
多くの日本人義勇兵のなかにおいても、フランス軍の滋野清武(しげのきよたけ)大尉は特筆すべき人物であるといえます。滋野大尉は日本ではあまり知られていませんが、「日本人として最初の実戦経験パイロット」であり「日本人初の戦闘機パイロット」であり「日本人初のエース(撃墜王)」でもある「真にプロフェッショナルといえる最初の日本人パイロット」で、当時の、滋野以外の全ての日本人パイロットを足してもなお滋野ひとりの飛行経験に及ばないに違いない、凄まじい戦歴を有します。
滋野は第1次世界大戦におけるフランス軍の大尉でした。なぜ日本軍ではなくフランス軍なのかというと、彼が優秀すぎたからです。
滋野は26歳のとき、最愛の人であった妻のわか子を亡くします。滋野は自暴自棄になりかけますが、日本にはまだ存在しなかった「飛行機」を知ると、ほかの全てを投げうって飛行機を愛するようになり、留学目的で渡仏し自費で操縦や航空力学を学び、立ち直ります。
滋野はこと航空に関する事柄となると、絶対に妥協を許さず、誰に対しても思ったことを恐れずにものを言い、話が止まらなくなる人の変わりようで、彼の言動は典型的な「マニア」だったといえます。
不遇の日本を飛び出してフランス軍へ
すでに日本で最も経験豊富なパイロットとなっていた滋野は、日本陸軍に教えを乞われたものの、民間人、音楽学校出身、文化系、温和で暴力を振るわない、病弱、マルチリンガル、華族の当主(男爵)、先代が成り上がり……などなど、軍人に嫌われそうな要素をこれでもかと詰め込んだような人物でしたから、案の定、帝国陸軍を追い出されます。
フランス軍の日本人義勇兵パイロット、滋野清武大尉。日本人初のエースとなった(画像:Unknown author、Public domain、via Wikimedia Commons)。
日本に嫌気が差した滋野はフランスへ渡りますが、ほぼ同時に第1次世界大戦が勃発。どうしても空を飛びたかった彼はフランス軍へ志願しました。するとなんとフランス軍は、「滋野は飛行経験豊富なパイロットだから当たり前である」と言わんばかりに、いきなり大尉として抜擢します。「大尉」という階級は航空部隊の隊長格であり、日本で理不尽な扱いを受けていた滋野は涙を流し喜びました。
かくして滋野の伝説が幕を開けます。飛行機が好きで仕方がない滋野は、少しでも長く飛行機に乗りたいと思い、危険な任務であろうと率先して引き受けました。地上のフランス人兵士たち、特に着弾を修正するための「観測機」の支援が必須だったフランス軍砲兵は、毎日欠かさずやってきては何百発もの砲弾が飛び交う最前線の上空でも恐れず観測信号を送り続ける観測機、そのパイロットたる滋野の勇敢な戦いぶりを目撃することになります。
たちまち、日本からやってきた勇敢なパイロットという記事が新聞に掲載されるまでになり、その軍功からレジオンドヌール・シュヴァリエ(フランス軍騎士勲章)が授与されました。
第1次世界大戦の少し前、フランスでは日本文化の大流行、いわゆる「ジャポニズム」がありました。日本からやってきた滋野の姿は、浮世絵に描かれた気高きサムライそのものだったのです。
偵察機で戦闘機をも撃墜 ついにエース部隊へ
その後も、当時の世界最強戦闘機フォッカー アインデッカーを偵察機で返り討ちにし最初の撃墜を達成するなど軍功を重ね、ついに戦闘機パイロットとなり、「シゴーニュ戦闘航空群」へ転属、最新鋭の高速重戦闘機スパッドS.VIIが与えられます。スパッドS.VIIは「エース専用機」として配備が始まったばかりであり、滋野は自分のスパッドS.VIIに「わか鳥」というニックネームを与えました。
「フォッカー アインデッカー」シリーズのE.III。「アインデッカー」は「単葉」を意味する(画像:帝国戦争博物館/IWM)。
シゴーニュ戦闘航空群はフランス軍におけるエリート中のエリートそのまたエリートを集めた戦闘機部隊であり、伝説的でさえあります。当時フランスでシゴーニュ戦闘航空群を知らないものなど存在しませんでした。シゴーニュ戦闘航空群にやってきたときの滋野の撃墜スコアはまだ1機でしたが、1917(大正6)年に流行病が滋野をノックダウンしてしまうまで、非公認を含め撃墜数は8機を数え、エースとなります。
第1次世界大戦においてほぼ毎日、出撃をこなした滋野は驚異的です。なぜなら第1次世界大戦期のパイロットとは通常、半月もすればたいてい操縦ミスで事故死するか、そうでなければ戦死していたからです。
滋野は誰よりも飛びましたから、悪天候も故障も怪我も致命的になりうる状況にも遭遇し、エンジン停止さえ何度もありました。ところが、滋野だけがトラブルに遭っても生還するのです。
任務外でも時間があればフランス人部下たちに操縦を指導するため飛び、自分の機の整備ともなれば整備員と最後まで一緒に働く。寝ても覚めても飛行機のことを考え、うまく操縦するにはどうしたら良いのか仲間たちと切磋琢磨する――飛行機が好きすぎる滋野は、どんな故障や負傷であろうとも冷静に最適な手順を実行できる知識、技術、精神、そして実際に何度もやってのけた自信、すなわち現代のパイロットにおいて必須とされる「エアマンシップ」を獲得するに至っていたのです。体系的な訓練もノウハウも何もないに等しいこの時代にです。
平均余命半月という地獄のような空にさえ適応できた真のプロ・パイロットは、滋野のほかにはほとんど存在しません。フランスでもイギリスでもドイツでも、戦前世代はほぼ戦死。滋野のほかは、ほぼ「1年生」ばかりになっていたからです。フランス人偵察員たちは、誰もが滋野の機に乗りたがりました。滋野と飛べば絶対に生きて帰れることを知っていたからです。
故郷へ錦を飾るはずが…不遇と若すぎる死
戦後、滋野は自分の経験を祖国日本へ還元したいという熱意をもって凱旋帰国します。これは日本にとって奇跡的な幸運でした。ところが、残念なことに滋野の経験は何も日本に益をもたらしませんでした。一度は追い出した滋野に教えを乞えるはずがありませんし、実際に日本陸軍航空の最高責任者などは、日本の航空の歴史において滋野の存在を隠蔽してしまうほどでした。
大戦を生き抜いた世界屈指の超ベテランのエースは、近所の子供たちと模型飛行機で遊ぶ「飛行機おじさん」となってしまいました。滋野はもともと病弱気味だったこともあり、その後の多数の日本人パイロットらの命、ひょっとするならば国家の命運さえ左右したかもしれない膨大すぎる経験を抱えこんだまま、1924(大正13)年に病死してしまいます。42歳という若さでした。
滋野の死はすぐにフランスまで伝わり、多くの人たちが悲しみました。なかでも滋野の戦友であり、大戦後は冒険飛行家として日本にもやってきたジョルジュ・ペルティエ=ドイジー大尉は、フランス紙「ルプチパリジャン」においてこのように記しています。
「滋野が急死したという残酷な知らせを受けました。数か月前、大阪の滑走路に降り立った私を大勢の日本人が歓迎してくれました。そのなかに三本線(大尉の階級章)を縫い付けたフランス軍制服を着用した日本人、滋野が居たことは感動的でした。我々にとって最も温かい友人であり、尊敬すべきパイロットである滋野の記憶ほど、我々が忘れてはならないものがほかにありましょうか?」
コウノトリのエンブレムを受け継ぐ仏空軍シゴーニュ戦闘航空群ミラージュ2000戦闘機(画像:Technical Sgt. Bob Sommer、Public domain、via Wikimedia Commons)。
滋野が所属したシゴーニュ戦闘航空群のエンブレムである、美しく飛翔するコウノトリ(シゴーニュ)は、もともと滋野の愛妻、わか子の名を冠した滋野専用スパッドS.VII「わか鳥」の識別マークでした。
2022年現在、フランス航空宇宙軍・空軍・第1戦闘航空連隊・第2戦闘航空群「シゴーニュ」の、ミラージュ2000F-5超音速戦闘機の垂直尾翼には、日本からやってきた滋野の愛機に描かれていたエンブレム「わか鳥」の末孫たちが、100年前のスパッドに描かれていたころと変わらぬその美しい翼を羽ばたかせており、いまもフランスの空を守っています。
日本が滋野を忘れようとも、フランス軍の偉大なる日本人義勇兵パイロット、キヨタケ・シゲノの名はフランスの文化と一体化し、永遠に残り続けるでしょう。