自慢の重装甲だったはず!? 旧海軍期待の新鋭艦 空母「大鳳」竣工-1944.3.7
旧日本海軍の空母「大鳳」が1944年の今日、竣工しました。飛行甲板や艦底などの防御力を強化した最新鋭艦は、戦局が悪化するなか期待の新星としてデビュー。しかしそのルーキー、一度も性能を発揮せず最期を迎えることになります。
500kg爆弾を用いた急降下爆撃にも耐えうる
1944(昭和19)年の3月7日は、旧日本海軍の航空母艦「大鳳」が竣工した日です。「大鳳」は旧海軍屈指の大型艦であり、かつ重装甲だったことでも知られます。
「大鳳」は建造において、空母が持ついくつかの脆弱性を解決しようと試みられた艦でした。航空機の発着に使う広い飛行甲板は、例え1発でも爆弾が命中し損傷すればその機能を失い、加えて爆弾が甲板を貫通し機関室などを破壊すれば、戦力そのものが危ぶまれます。
旧日本海軍の重装甲空母「大鳳」(画像:アメリカ海軍)。
1939(昭和14)年に策定された「第4次海軍軍備充実計画」で、800kg爆弾の直撃に耐えられる飛行甲板を持ち、かつ機関室や弾薬庫は巡洋艦の主砲弾の直撃に耐える排水量3万トン級の重装甲空母「第130号艦」が計画されました。これが後の「大鳳」です。
ただ飛行甲板全体に重装甲を施しては、艦の重量や重心の面で不利になるため、結局、その重装甲は特に重要な部分のみに限られました。なお、当時の艦載機は150mあれば発艦可能だったことから、前後のエレベーター間隔を150mとし、そこに20mm高張力鋼と75mmのCNC(装甲用の鋼材のひとつ)装甲板を重ねます。これにより、高度700mからの500kg爆弾を用いた急降下爆撃にも耐えられる構造としました。
空からだけでなく海中から、つまり魚雷に対する防御も強化されました。艦底の主要部を3重底にするとともに、鉄板を重ねるだけでなく、空気や液体をあいだに挟む、いわゆる中空防御構造が採用されました。こうして強力な空母が完成したわけですが、竣工したころには太平洋戦争も後半で、戦局は悪化の一途を辿っていました。
竣工から1か月経たずして、「大鳳」はシンガポールを経由しフィリピン南西部のタウイタウイへ進出。ここで訓練に従事します。
たった1発の魚雷が致命傷に…
3か月後の1944(昭和19)年6月中旬、中部太平洋の要衝、サイパン島およびグアム島を巡って日米が激突します(マリアナ沖海戦)。襲来したアメリカ軍に反撃すべく、旧日本海軍は空母機動部隊を出撃させますが、その旗艦として「大鳳」は用いられました。しかし、この初陣が最期となります。
19日朝、サイパン島西部にアメリカ軍の空母艦隊を発見した「大鳳」は攻撃隊を発進させます。ただ、周辺海域はアメリカ軍潜水艦の索敵圏内であり、同じころ「大鳳」も潜水艦の追尾を受けていました。
攻撃隊を発進させ終わったころ、うち1機が編隊を組まず海面に突入するという場面がありました。直後、「大鳳」の右舷前部に魚雷1本が命中。その機は自らが犠牲となりながら、「大鳳」に迫る魚雷を阻止しようとしたのでした。
被雷した「重装甲空母」でしたが、浸水を抑え、何事もなかったかのように航行を続けます。ただし衝撃で前部エレベーターが故障したため、続く攻撃隊の発進と収容に間に合うよう、大急ぎでエレベーター孔がふさがれました。
14時半ごろ、帰還した第2次攻撃隊が着艦しようとした時、「大鳳」は突如大爆発を起こします。実は被雷時に艦載機用燃料タンクが破損し、ガソリンが漏れ続けていたのです。気化したガソリンは艦内に充満していきますが、重装甲のため通気性は悪く、加えて応急措置でエレベーターもふさがれていました。一説では、艦載機が着艦した際に火花を生じ、それが気化したガソリンに引火したとされています。
大火災に見舞われた「大鳳」は消火もままならず、ついに航行不能となります。連続する爆発により、飛行甲板上の艦載機や乗組員らが吹き飛ばされました。およそ2時間後、「大鳳」は沈没。防御を強化したはずの大型空母は、ダメージコントロールの不手際もあり、むしろそれが仇となってしまったといえるかもしれません。