かつて「アンカレッジ経由」として多くの航空ファンなどに親しまれた「欧州線の北回りルート」ですが、北回りより昔から「南回りルート」というのも存在しました。廃れたそのルートがいま、再注目を浴びています。

南回りの起源は戦前?

 2022年3月現在、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻の影響で、極東日本の民間航空の世界にも混乱が起きています。日本〜欧州線の飛行ルートにおいて、これまでロシア上空を通る「シベリアルート」がスタンダードだった航空各社が、同国を避ける迂回ルートの使用を本格的に開始したのです。

 このなかで注目を集めているのがいわゆる「南回りルート」というもの。実は一定年齢層以上の日本人旅行者がよく知る「アンカレッジ経由」でおなじみの「北回りルート」より、もっと古い歴史を持つ飛行ルートです。


ANAのボーイング787-9(乗りものニュース編集部撮影)。

 ロシアを避け日本からヨーロッパへ至る飛行ルートとして、よく知られているのはふたつ。かつておなじみだった、アンカレッジを経由しシベリアを避けつつ北極圏を通る「北回りルート」、そして今注目の「南回りルート」です。ともに東西冷戦期、旧ソ連(ロシア)が領空制限を設けていたこと、当時の旅客機では欧州へノンストップ飛行が難しかったことから一般的になった航路で、現在旅客便の営業運航で使用されることはほとんどありません。

 しかし2022年、ウクライナとの問題でロシア上空が再度閉じられることに。「北回り」が有力と思われるなか、ANA(全日空)がヨーロッパ線の迂回ルートとして、トラブル時に着陸する代替空港の設定を理由に「南回り」の直行便を採用。もちろん、かつての「南回り」と運航スタイルは全く異なるものの、いまや珍しい飛行ルートということもあり、一部航空ファンを中心として注目を集めました。

 かつてのヨーロッパ線での「南回りルート」は、香港、シンガポール、インドネシア、フィリピン、インドなどを通過するルートが一般的でした。世界的に見ると、このルートの歴史は冒頭のとおり古く、その始まりは戦前まで遡ります。当時このエリアは、ヨーロッパの植民地の名残が強く残っていたことから、寄港地として設定しやすかったために、飛行ルートとして策定されました。

 ただ、1960年代ごろから、ヨーロッパ線の飛行ルートの主力はアンカレッジ経由でおなじみ「北回りルート」へと移り変わることになります。

なぜ北回りが主流になったのか?

 冷戦下の日本〜ヨーロッパ線の飛行ルートが、南回りから北回りに移行されたのは、当時の情勢が大きく関係しています。

 南回りルートでは、いわゆる中東地域の上空を通過します。1960年代は、インド・パキスタンの対立による印パ戦争やイスラエル・エジプトなどが対立した中東戦争をはじめ、この地域は情勢が非常に不安定でした。実際に旅客機が攻撃されたり、ハイジャックが起こったりもしていました。


2022年2月のフライトレーダーのロシア上空の画像。JAL・ANA以外はロシア機ばかりだった(画像:フライトレーダー24)。

 ただ、日本の航空会社は、戦後一歩遅れて国際線に参入してきたこともあり、JAL(日本航空)が1961(昭和36)年にまず「北回り」欧州線を開設、その後に南回り欧州線も就航させ、しばらく併存します。一因としては、日本からヨーロッパに直行する搭乗客はもちろんのこと、アジアと旧宗主国を行き来する旅客の需要もあったためでしょう。

 日本初の「南回り」路線は、日本からヨーロッパの最終目的地まで、途中各駅停車のように各経由地へ着陸し、乗客の入れ替え、乗務員の交替、燃料の補給などを実施しました。国際航空便において「北回り」が“特急列車”であれば、「南回り」は“ローカル列車”のようなもので、運賃も「北回り」と比べて低く抑えられていました。

 筆者も「北回り」でヨーロッパに行ったことがありますが、「南回り」は安いものの、到着までの時間がのべ24時間近くかかると聞いていたので避けてしまった記憶があります。ただ、その運賃だけではなく、いくつかアジアの都市を経由するため、それぞれの地の雰囲気を感じることを好む猛者がいたとか。今考えると筆者も、昔の南回りルートを経験しておけばよかったと後悔しています。

※一部修正しました(3月7日20時00分)。