「沖田氏縁者」の墓の女性は誰?新選組・沖田総司の恋人はまさかのあの人…?史跡巡りで見聞した説とは

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現在、劇場公開中の映画「燃えよ剣」を機に、再度新選組の資料や文献を読み返していた筆者ですが、沖田総司(おきたそうじ)にまつわる話で一つ思い出したことがありましたので、こちらで紹介させていただきます。

子孫が沖田総司に似せて書かせたと言われる肖像画

山南敬介の明里と恋仲に?

新選組初期の悲話といえば、多摩時代からの仲間、山南敬介の脱走と切腹ではないでしょうか。仙台藩出身の北辰一刀流の使い手であり、その温厚な人柄から、皆に「サンナンさん」と呼ばれて親しまれていました。

一度は総長という地位にありながら、近藤勇や土方と確執が生じて新選組を脱走。途中で沖田総司に連れ戻されて、隊規違反で切腹させられました。

その山南には京都に来てから恋仲になった芸妓・明里という存在がいました。

その明里が山南が切腹させられることを知り、慌てて屯所へ駆けつけて格子窓から今生の別れを交わしたという場面は、作家・子母澤寛が八木源之丞家の次男・為三郎に取材して書いた本に書かれており、小説や漫画、映画などでよく描かれる場面です(ただしこの場面は子母澤の創作ともいわれています)。

さて、明里はその後どうなったのか。

山南敬介の死後、沖田と恋仲になった説があるのをご存じでしょうか?

光縁寺外観(筆者撮影)

実はこの説は、数年前に京都の光縁寺に訪れたときに聞いた話。光縁寺といえば、新選組が屯所としていた「前川邸」や「八木邸」のすぐそばにあり、当時の住職・良誉上人が山南敬介と親交を深めた縁で、たくさんの新撰組隊士の遺体が埋まっています。

光縁寺の過去帳の埋葬一覧では…

野口健司・葛山武八・山南敬介・松原忠司・谷三十郎・加納鷲尾・藤堂平助・伊東甲子太郎などなど、総勢28名もが弔われていることがわかります。

そしてその中に、慶応3年4月26日に葬られたとされる「真明院照誉貞相大姉 四月廿日 沖田氏縁者」という名があります。「真明院照誉貞相大姉」は戒名ですね。この名は長らく、新選組ファンの間で「沖田の恋人では」と囁かれてきました。

光縁寺の山南敬介(一番右)と新選組隊士たちの墓石(一番左)※筆者撮影

沖田氏縁者は埋葬された時点でお墓が建てられた訳ではなく、長い間この過去帳に記帳されているだけの存在でした。墓石そのものは昭和51年当時の住職が供養のため建てたものです。住職によると、実はこれが明里なのでは?という説があるとのこと。

沖田と光縁寺共通の縁がある女性が思い至らない

山南が切腹したのは元治2年2月23日(1865年3月20日)のこと。
謎の女性が葬られたのは慶応3年4月26日(1867年)のこと。

山南の死後、2年後ですね。

山南の介錯もした沖田が、明里を哀れに思い世話を焼いてあげ、また明里も沖田を頼りにするようになり、深い仲になったのでは?とのこと。

ここからは筆者の想像と推測も交ります。

沖田の労咳がうつったのか何らかの事情で死期が迫った明里が、「自分が死んだら山南と同じ場所に埋めてほしい」と沖田に頼み、それを沖田が聞き遂げてあげたのではと。

ただ、沖田が明里を哀れに思っただけなのなら、「山南縁者」としてもよく、わざわざ「沖田」としなくてもいいはずです。また、沖田が一方的に好意を寄せていたとしても、女性の意向を無視して「沖田縁者」として葬るとも考えにくいです。

となれば、この女性は「沖田の縁者」として葬られてもおかしくはないか、同意の上だったととみるのが自然で、二人の仲が浅からぬものと考えるのが自然ですね。また、光縁寺にゆかりがない人物なのであれば、ここに葬る必要もなかったはずです。

戒名も似ている

沖田総司の戒名と、謎の女性の格と名前が似ているとの指摘もあります。
・総司の戒名「賢光院仁誉明道居士」
・女性の戒名「真明院照誉貞相大姉」

大姉とは女性の戒名の最後につく語で、男性でいう居士にあたります。戒名の位としては、一番低い「信女」の上にあたり、在家信者の女性につけられるとのこと。

ただ、武家などのしっかりとした身分の女性であれば、俗称(名前を伏せて)で葬られることはないはずですし、そもそも未婚であればその家の菩提寺に弔われるのではないでしょうか。大姉としてあげたものの、身分は高くなかったとみるのが通常でしょう。

沖田自身も出自から謎の多い人物ですし、明里の史料も資料も見つかっていませんので、まったく推測と想像の域を出ないのですが可能性としてはありそうな線だと思います。

沖田総司といえば近藤勇がその仲を反対したという「医者の娘」との悲話もありますが、この話も信ぴょう性ははっきりとはしていません。その説はまた、次回ご紹介することにします。