自分でも気づかないうちに「自分の限界」を決めてしまうのは、とても悲しいことだといいます(画像:Graphs/PIXTA)

イギリスのロボット科学者であるピーター・スコット-モーガン博士は、全身の筋肉が動かなくなる難病ALSで余命2年を宣告されたことを機に、人類で初めて「AIと融合」し、サイボーグとして生きる未来を選んだ(詳しくは「人類初『AIと融合』した61歳科学者の壮絶な人生」参照)。

「これは僕にとって実地で研究を行う、またとない機会でもあるのです」

彼はなぜ、そんな決断ができたのか。経営コンサルタントとして活躍してきた彼が、なぜ「人間の定義を変える」ような偉業を成し遂げられたのか。ピーター博士が自らの挑戦の記録として著わし、発売直後から世界で話題騒然の『NEO HUMAN ネオ・ヒューマン――究極の自由を得る未来』がついに日本でも刊行された。

本書を「エスタブリッシュメントとの闘いの物語であり、自分の限界への挑戦の物語だ。すべての人にとって、無関係ではない」と語るのが、偏差値35から東大に合格し、『東大読書』『東大思考』など多くのベストセラーを持つ西岡壱誠氏だ。ピーター博士の軌跡から見えてくる「夢を諦めたことにすら気づかない恐ろしさ」を解説してもらった。

諦めずに挑戦できるかどうか

これまで、SF作品の中では、人体のロボティクス化やサイボーグ化が大きなテーマになってきました。しかし、『ネオ・ヒューマン』は、現実の社会でそれが行われていることを描いており、人類は、有史以来の非常に大きな転換点に来ているのだというパラダイムシフトを感じました。


『NEO HUMAN ネオ・ヒューマン――究極の自由を得る未来』(画像をクリックすると、特設サイトにジャンプします)

本書の大きなテーマに「エスタブリッシュメントに対する反抗」があります。

ピーター・スコット-モーガンさんは、少年期には同性愛を認めない教師たち、青年期には会社の上層部、ALSと診断された後は従来の治療法に固執する医学会など、「エスタブリッシュメント」と呼ばれる権威と徹底的に闘い、そのすべてで勝利を手にしています。

たとえば友人のアンソニーとの会話の中で、少年時代のピーターさんは次のように宣言します。

「これからの僕は、不公平な現実に耐えることを拒否する。代わりに現実を変えてみせる。殴られて降伏させられるのも、選択肢を奪われて服従させられるのもごめんだ。弱みを強みに変えて、新たな選択肢を創造するんだ。(中略)

これからの僕は、エスタブリッシュメントの世界に攻撃されるたびに、何度だって、何度だってやり返してやる。いつか、やつらが降参するまで」(中略)

アンソニーは声を上げて笑った。この計画が大いに気に入ったらしい。再び歩き出しながら、彼は感想をひとことでまとめてみせた。

「大乱闘になるな!」

私は立ち止まった。アンソニーも立ち止まった。

「乱闘だって?」と、わざとらしく叫ぶ。「これは戦争だよ!」

『NEO HUMAN ネオ・ヒューマン――究極の自由を得る未来』より

ピーターさんは60歳を超える現在まで、一貫してこの姿勢を貫き通しています。本書ではその痛快な闘いっぷりが描かれていて、やっぱりすごい人だと思います。

ただ、僕たちはなかなかピーターさんのように「戦争」なんてできません。エスタブリッシュメントに反抗なんてできないし、そういう思考は持っていたとしても、実際に行動できる人はほとんどいないのです。

僕がいま関わっている教育分野でもそうです。かつては「東大に合格するための情報は、進学校に行かないと手に入らない」という時代でした。しかし今は、インターネットで検索すれば、誰でも簡単に東大に合格するための情報を大量に得ることができます。

ところが、その変化によって、偏差値の低い環境にいながら東大に合格する人が増えたかというと、ぜんぜんそんなことはありません。

ここは実は、多くの人がエスタブリッシュメントに抵抗できないでいることと、構図が似ているのではないかと思います。厳しい状況に置かれたとき、最初から諦めてしまう。実は闘える状況にいたとしても、最初から闘うことを考えないわけです。諦めたことすら自覚しないことも多いでしょう。

そこで諦めなかったのが、ピーターさんです。本書には、苦しむピーターさんが、自分自身と向き合って対話するシーンが描かれています。どんな状況に置かれても、彼のように「それでも闘うんだ」と考えられる人はなかなかいません。

自分で無意識に引いた線を越えられるか

自分自身との対話を乗り越えられず、踏み出せない人は本当にたくさんいます。

幼い頃は、みんな「なりたい自分」がありますよね。野球選手、宇宙飛行士など自由に思い描いていたはずです。でも、中学、高校と進学するうちに、「そんなことは無理だ」と思うようになり、「なりたい自分」から線を引いて、自分を囲ってしまうのです。

自分を取り囲んだ境界線から外へ出るのは、本当に大変なことです。誰もが、その線になにか意味があると思い込んでいて、その線の内側だけで生きようとしてしまう。けれど、そんなものは幻想なんです。

そこをぶっ壊して踏み越えられることが「自由」ということだと思いますし、『ネオ・ヒューマン』を読んでますますそう感じました。

僕は、偏差値35、2浪という条件から東大に合格しましたが、当初は、自分には何もできないと思っていました。自分が東大を目指すなんて、考えたことすらありませんでした。

親が高収入で、小学生のころから成績優秀、さらに塾に通って、当然のように有名中高一貫校に入るなど、そもそも恵まれた状況にいて、既定路線で東大に合格する人はたくさんいます。その人たちが「高学歴」となり、階層構造が固定化され、そして、その構造が再生産されています。

僕はもともと成績も悪かったですし、けっこうキツイいじめを受けてもいました。だから、「自分の状況では仕方がない」「どうせうまくいくわけがない」と、無意識に諦めていました。人生は、ただ与えられるものだと思い込んでいたのです。

ところがピーターさんは、与えられた状態をただ受け入れるだけの生き方を「原始人と同じ」と揶揄しています。実際には、そこから先へ自分で道を切り開いて進んでいくことができるし、人間の価値はそこにあるわけです。

僕は、いい先生に出会ったこともあって、崖っぷちから、エスタブリッシュメントにどう対抗すればいいのかを考え始めました。

「こんな学歴社会は嫌だ」と言って他の道を探すのも大いに結構なのですが、それで何かが変わるのだろうか。なにも見ないままでそう言うのもおかしいと思いましたし、東大を知らずに東大を批判することもできません。

やはり僕自身が東大生になることで、「恵まれた人が当たり前に東大に入る」というルートに一石を投じたいと思いました。エスタブリッシュメントにアプローチして、変革する存在になりたい。そして、僕らのような存在がいることを知ってもらいたいと思ったのです。

僕が「リアル・ドラゴン桜」プロジェクトをやる理由

僕は現在、カルペ・ディエムという会社をつくり、東大に行くことが当たり前ではない、偏差値の低い学校の高校生たちに勉強法を指導しています。東大合格を含め、自分自身の線を乗り越えてもらうための「リアル・ドラゴン桜」プロジェクトに取り組んでいるのです。

自分で引いてしまった線を飛び越えて、あの環境に行くぞと思うことが大事で、実際に、偏差値の低いところから医学部に合格する生徒も出てきています。それによって、まわりに同じような思いの生徒たちが集まってきてもいます。

最終的には、僕のように『ドラゴン桜』的な道のりで東大に行く人を、全体の2割ほどまで増やし、エスタブリッシュメントの世界を相対化できればいいなと考えています。これが、僕なりの「エスタブリッシュメントへの反抗」です。

もちろん、東大だけがゴールではありません。僕は、よく受験生たちにこう言います。「君たちの第一志望を応援したい。『行ける大学』ではなく、『行きたい大学』に向かって走り、そこへ行ってほしい」と。

東大が、その子にとって「行ける大学」なら、むしろ行かないほうがいい。それなら海外留学のほうがいいのではないかと思っています。「東大」はただわかりやすいだけで、本当に本人が「行きたい」と決めた大学を選んだほうが良いのです。

そのためには、もっと自由に、エスタブリッシュメントに「戦争」を挑まなければならない――それがピーターさんのメッセージです。打倒したいものは、人によって、親であり、会社であり、社会であり、自分自身でもあるでしょう。

だから勉強しよう

近年は、キャリア教育として、中学生など早い段階から「将来のことを考えましょう」と指導する教育方針があります。これが間違いだとも思いませんが、このようなキャリア教育が行きすぎると、大きな弊害があるようにも思います。


例えば、ある中学生が「美容師になりたい」と言ったとしましょう。その子には、美容業界というところは生涯年収でどのぐらい稼げて、どのぐらい似たような思いの人がいて、どのぐらい大変な仕事なのかということを、客観的に考えるだけの視野と教養があるでしょうか。美容師以外の選択肢が、その時点でどれほど見えているでしょうか。

僕自身は、行動することそのものがプラスだと思いますし、中学生のうちから、将来について考えること自体は間違っていないと思います。ただ、どんな道を選択するにせよ、「だから勉強はしなくていい」となることを危惧しています。勉強はするべきだと思いますね。

現に、ピーターさんは学がすごい。頭のいい人です。社会構造がなぜこうなのか。どうしてこういう世の中になっているのか。どんな技術があるのか。そういうことを考えられる頭のよさを養わなければ、エスタブリッシュメントに反抗もできませんし、勝てません。

だから、勉強しよう。その一点に尽きます。

ピーターさんの示した道に続く人たちもきっといるでしょうし、彼の走っていく姿そのものに価値があると思います。全力で走って何かをやって、前に進んでいる人がいれば、必ず誰かがその背中を見ています。そして、続く人間が出てきます。現に、ALSで諦めていた人たちも、ピーターさんの話を聞けば、走ることができます。

そして、ピーターさんのような境遇ではなくても、問題を抱えていない人間はいません。誰もが何らかの抑圧を受けて、無意識のうちに自分で決めた「自分の限界」にとらわれているわけです。『ネオ・ヒューマン』は、ピーターさんの特殊な物語でありながら、決して僕たちに関係ない物語ではありません。

(構成:泉美木蘭)