大河ドラマ「青天を衝け」渋沢栄一を世に送り出した父・渋沢市郎右衛門の生涯

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令和3年(2021年)好評放送中の大河ドラマ「青天を衝け」。主人公の渋沢栄一(しぶさわ えいいち)が縦横無尽に活躍して「日本実業界の父」となるまでが描かれていきますが、彼の父・渋沢市郎右衛門(いちろうゑもん)はどういう人だったのでしょうか。

よく「親の顔が見てみたい」などと言うように、親の生き方は良くも悪くも子供に大きな影響を与えるもの。

トンビがタカを産んだのか、それとも、タカの親にしてタカの子ありだったのでしょうか。今回はそんな「日本実業界の父」の父・渋沢市郎右衛門の生涯を調べたので、紹介したいと思います。

渋沢一族の分家「東の家」から本家「中の家」へ

渋沢市郎右衛門は江戸時代末期の文化6年(1809年)、武蔵国榛沢郡血洗島村(現:埼玉県深谷市)の豪農・渋沢一族の分家「東の家(ひがしんち)」の渋沢宗助(そうすけ)の三男として誕生しました。

元の名前は元助(もとすけ)と言いましたが、渋沢一族の本家「中の家(なかんち)」に男子がいなかったため、「中の家」の渋沢唯右衛門(ただゑもん)の娘・ゑいと結婚して婿養子となり、名前を市郎右衛門と改めます。

一生懸命働いて、本家を建て直した市郎右衛門(イメージ)。

当時「中の家」は渋沢一族の本家でありながら経済的に傾きつつあったのですが、仕事熱心で創意工夫の意欲に富んだ市郎右衛門は養蚕と藍玉づくりに励み、生家「東の家」に経済援助するまでに建て直しました。

そんな働きぶりによるものか、血洗島村を治めていた岡部藩(安部−あんべ氏)より苗字帯刀の権利を認められ、村の人々からも慕われたそうです。

その一方で花鳥風月を愛して俳諧を嗜み、神道無念流(しんとうむねんりゅう)剣術をよくしたと言いますから、まさに文武両道と言えるでしょう。

尊皇攘夷の血気に逸る栄一らを諭す

さて、天保11年(1840年)には待望の男児・渋沢栄一が生まれ、家業を継がせようと厳しく教育したそうですが、真綿が水を吸い込むような成長を喜ぶ一方で、困ったことも起こります。

郷に入れば郷に従え…外国人への無礼討ちとして有名な生麦事件。Wikipediaより。

「異人どもめ……神聖なる日本の国土を踏みにじる横暴、もはや我慢がならぬ!」

「事なかれ主義の弱腰な徳川幕府には任せておけぬ!今こそ我らの手で攘夷を決行し、天子様(天皇陛下)の御心を安んじて差し上げよう!」

「おう、やらいでか!」

嘉永6年(1853年)の黒船来航よりこの方、ジワジワと開国が進んで外国人が各地を横行。しばしば傍若無人な振る舞いに及んでトラブルを惹き起こしており、これに憤る者たちが尊皇攘夷(そんのうじょうい)を声高に叫び始めたのです。

尊皇とは「天皇陛下=皇室をたっとぶ」こと、攘夷とは「夷(ゑびす。野蛮人≒国を乱す者)を攘(うちはら)う」ことを言い、外国人の横行が「皇室をたっとぶため、国を乱す野蛮人を打ち払って天皇陛下の御心を安んじる」尊皇攘夷の意識を急速に高めたと言えます。

日本の文化を否定し、同胞に乱暴することは、すなわち日本の象徴である皇室に対する侮辱であり、日本人であれば誰もが怒り心頭な案件ですが、いかんせん志士たちの主張や行動は過激でした。

「かくなる上は、横浜へ殴り込んで外国人居留地を焼き討ちしてくりょうぞ!」

「「「おおぅ……っ!」」」

栄一の従兄たち。左が喜作、右が新五郎。Wikipediaより。

文久3年(1863年)、年ごろになった栄一は分家「新屋敷(しんやしき)」の渋沢喜作(きさく。栄一の従兄)や、同じく従兄の尾高新五郎(おだか しんごろう、惇忠)らと共に攘夷運動を計画します。

「やめんか!いっときの怒りに任せて個々に暴れたところで、世の趨勢は変わらん。来るべき時が来れば、皆で力を合わせて世直しも叶うゆえ、今は自重して、力を蓄えるんじゃ!」

結局、この横浜焼き討ち計画は中止されたのですが、このままでは収まらぬ栄一は、喜作らと共に攘夷運動が活発な京都へ行くことにしました。

尊皇攘夷の志士となった栄一を送り出す

「……どうしても行くんか?」

「はい。父上には申し訳ないのですが……」

時には非合法な行為に及ぶかも知れず、家族に迷惑がかからぬよう、栄一は市郎右衛門に対して自分を勘当(かんどう。親子の縁を切ること)するようお願いしますが、父はそれを認めませんでした。

「いや。どこへ行こうが何をしようが、お前はわしの自慢の息子じゃ。そのお前がこれだけ考えて決断したことであれば、いかなる連座(連帯責任)も、甘んじて受けてやろうじゃないか」

そう言って餞別に金100両を栄一に贈ります。

「よいか。男児がひとたび志して起つ上は、決してお天道様に恥じることのないよう、また後悔のないよう、思い切り暴れて来い!」

「はい!」

旅立つ栄一(イメージ)。

かくて尊皇攘夷の志士として故郷を飛び出していった栄一の背中を見送りながら、市郎右衛門は嘆息します。

本当だったら、自分が飛び出していきたいところ……趣味の俳諧を通じて意気投合した金井烏洲(かない うじゅう)など尊皇攘夷の志士とも交流があった市郎右衛門ですが、時すでに55歳。

活躍の場を若い世代に譲り、また彼らが帰って来られる故郷を守ることもまた、大切な大人の務め。そう心得ていたからこそ、決意の揺るがぬ栄一を勘当せず、また共にも行かず、背中を押して送り出す決断をしたのでした。

終わりに

とかく人間は功名を求め、こと年齢や経験を重ねるほどに「俺が私が……」と自分が前に出たがるものですが、あえて一歩引いて若い者たちに挑戦の機会をつくり、華を持たせようとする市郎右衛門の姿勢は、大人として見習うべきものと思います。

大政奉還によって武士の世は終わりを告げ、新たな世が幕を開ける。

明治維新を成し遂げた志士たちの裏には、こうした数知れぬ家族や支援者たちの理解と協力があったことでしょう。

その後、市郎右衛門と栄一がどのような人生をたどったのか、そのエピソードはまた機会を改めて紹介できればと思います。

※参考文献:
竜門社 編『渋沢栄一伝記資料 第1巻』岩波書店、1944年1月
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典第3巻』吉川弘文館、1983年2月