最終予選を迎えるにあたり、オフト監督はイラクの情報をほとんど持ち合わせていなかった。ただ、「おそらく(最終予選で)一番強いだろう」という予測はついていたオフト監督にとって幸運だったのは、データを収集できるという意味でイラクとの試合が最終戦だったことだ。そして、最終予選で得たそのデータによって指揮官が導き出した答は、「やはりイラクは危険なチーム」だった。

 なお、イラク戦を前にした最終予選の順位は以下の通りだった。1位が日本(勝点5/2勝1分1敗/得失点差+3)、2位がサウジアラビア(勝点5/1勝3分/得失点差+1)、3位が韓国(勝点4/1勝2分1敗/得失点差+2)、4位はイラク(勝点4/1勝2分1敗/得失点差0)、5位はイラン(2勝2敗/得失点差−2)、6位は北朝鮮(勝点2/1勝3敗/得失点差−4)。
 
 当時は勝利が勝点2で、勝点で並んだ場合は得失点差、総得点、当該国間の順で順位を決定していた。最下位の北朝鮮以外の5か国が勝点1差にひしめく大混戦で、その5か国にアメリカ行きのチャンスが残されていた。ちなみに、最終戦のカードは、日本対イラク、サウジアラビア対イラン、韓国対北朝鮮だった。

 10月28日、勝てば他会場の結果に関係なく日本のワールドカップ初出場が決まる“運命のイラク戦”が、アル・アハリ・スタジアムでキックオフの時を迎えた。4−3−3システムで臨んだ日本のスタメンは以下のとおり。GKが松永成立、4バックは右から堀池巧、柱谷哲二、井原正巳、勝矢、ダブルボランチが吉田光範と森保一で、トップ下がラモス、3トップは右から長谷川、中山、カズだった。福田はこの日もベンチスタートだった。

 開始5分、試合はいきなり動く。長谷川のシュートがクロスバーを直撃。跳ね返ったボールをカズがヘッドで押し込み、日本が先制したのだ。

 これ以上ないスタートを切った日本だが、その後は苦戦を強いられる。ベンチで眺めていた福田もイラクの強さ、勢いを肌で感じていた。

「先制されたあとのイラクはもの凄い勢いで攻めてきた。3点、4点くらい奪われていてもおかしくない展開だった。イラクは本当に強かった」
 
 前半は1−0のまま凌いだ日本も、後半に入るとさらに押し込まれる。そして55分、とうとうイラクのアーメド・ラディに同点弾を許してしまう。どうにか流れを変えたいオフト監督がその4分後にピッチへ送ったのが福田だった。セカンドボールもなかなか拾えない状況で日本のペースに持ち込むには、福田の打開力が不可欠と指揮官は考えたのかもしれない。

 それでもイラクの勢いは衰えない。何度もピンチを迎えた日本だが、69分にラモスが一瞬の隙を突いて前線にスルーパスを送った──。ラモスからの“中山へのパス”を、福田は次のように解釈している。
 
「あの場面、前線には俺と中山がいた。結果、ラモスさんは俺じゃなく中山を選んだ。その決め手になったのはコンディションだったのではないかと思っている。ラモスさんに聞いてないから本当のところは分からない。でも、俺はなんとなくそう感じた。信頼しているほう、調子がいいほうにパスを出す、そりゃあそうだよね、勝ちたいから。絶対に決めてくれるほうに出す。ラモスさんの選択はそうだったと思うし、間違っていなかった。中山は明らかにオフサイドの位置にいたと記憶しているけど(笑)。ただ、中山のシュートが決まったあとにオフサイドの判定はなくて、あの時は素直に『ゴールか、ゴールが決まった』と思った」

 なにはともあれ、中山のゴールで2−1とリードした日本。しかし、福田はこの時感じていた。「あの1点でイラクに火をつけてしまった」と。<エピソード6に続く。文中敬称略>

取材・文●白鳥和洋(サッカーダイジェスト編集部)

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