東宮参与の小泉信三氏(故人、左端)とお妃教育に向かう美智子さま('59年3月)

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「このたび、美智子さまがこれまで詠まれてきた和歌が、ドイツ語に翻訳された歌集『その一粒に重みのありて』として、ドイツで出版されました。

 皇室入りされてからの国内外での公務や私的なご体験まで幅広いテーマの50首を厳選し、現地で日本を研究している学者が翻訳しています」(宮内庁関係者)

 海外から美智子さまに関する喜ばしいニュースが飛び込んできた。「和歌」は伝統文化の継承を担う皇室の方々にとっては大切なもの。

 美智子さまも日々の公務やプライベートな事柄などを和歌にして、毎年1月に開催している『歌会始』などで披露されている。

「美智子さまは“お妃教育”の一環である“ご進講”で和歌と出会われました。

 '58年に史上初の民間出身のお妃に選ばれ、翌年1月から3か月間のご進講が始まったのです。和歌の先生は五島美代子さんという方で、ご進講の際には“一日一首、百日の行”という訓練を課されました。

 美智子さまは最後までこなされて、現在のような素晴らしい和歌を詠まれるようになったのです」

 そう話すのは、皇室を長年取材するジャーナリストで文化学園大学客員教授の渡邉みどりさん。

 美智子さまは“百日の行”の終盤に、皇室に嫁がれる「決意」を和歌に込められていた。

「《たまきはる いのちの旅に吾を待たす 君にまみえむあすの喜び》

 '59年4月のご成婚前日に詠まれたもので、“百日の行”の最後の和歌です。“たまきはる”というのは“命”の枕詞。“命がけで陛下のもとに嫁ぐというのが明日になり、一生を添い遂げる”というお気持ちを御歌にされているのです」(渡邉さん、以下同)

 一部では、陛下の退位日が再来年の3月末で調整されていると報道され、陛下の退位後の「お住まい」に関して注目が集まっている。

 美智子さまにとって皇太子妃時代のお住まいだった赤坂御所には、多くの「思い出」が残っているという。

「《三十余年君と過ごししこの御所に 夕焼けの空見ゆる窓あり》

 '93年に“移居”という題で詠まれた御歌で、赤坂御所への強い思いがあふれているように感じられます。

 30年以上、お住まいになった赤坂御所では、子育てや料理、陛下との思い出などがたくさんおありだと思います。

 お代替わり後のお住まいが、どちらになるのかが議論されていますが、慣れ親しんだ赤坂御所を望まれているのかもしれませんね」

 '15年に“慰霊の旅”の一環で、パラオを訪れたときの印象的な出来事も和歌にされている。

「《逝きし人の御霊かと見つむパラオなる 海上を飛ぶ白きアジサシ》

 パラオ訪問の際に、日本からお持ちになった白菊を献花されたときのことを詠まれています。

 海の上を飛ぶ白いアジサシという鳥が、戦争で亡くなった人々の御霊のように感じられ、“安らかにお眠りください”という意味が込められているのだと思います」

 「和歌」と出会われてから約60年─。その間に詠まれてきた数々の作品からは、美智子さまの“心のありよう”が感じられる。