平野 佳寿投手(鳥羽−オリックス・バファローズ)「高校時代は2番手。だけどエースとして活躍することを期待していた」
2017年。サムライジャパンに欠かせないリリーフ陣の一人としてマウンドにあがる平野佳寿。今の姿からは想像もつかないが鳥羽高校時代に甲子園出場経験はあるが背番号は二桁だった。才能開花は京都産業大学時代。2年生から投げれば負けないエースとしてマウンドに立ち、通算36勝、404奪三振は未だ破られていないリーグ記録だ。
オリックス入団後はルーキーイヤーに10完投、4完封と完投能力の高い先発投手として活躍し、2010年から中継ぎ転向。2013年からは守護神を任されストレートとフォークを武器に試合を締めくくるクローザーとして君臨。2016年には31セーブをあげた。そして2017年WBC代表に選出され、ここまで登板試合の全てで好リリーフを見せる平野。当時、鳥羽高校で指揮を執っていた卯瀧 逸夫氏の目にはどう映っていたのだろうか。
平野選手の高校時代について語る卯瀧 逸夫氏
「平野を初めて見たのは中学3年生の冬休みです。鳥羽高校で野球をやりたいということで1回見せていただきました。細かったですけど、手足の長い子でした。フォームそのものは一定でまとまってる子で、(鳥羽の前に指揮を執っていた)北嵯峨の時に同志社大を経て、横浜ベイスターズにお世話になった細見 和史という右ピッチャーがいたんですが、その子に似ている印象を受けました。平野のベンチ入りは1年秋からですね。エースは1学年上に谷口 豊という2000年の選抜でベスト4に入るピッチャーがいまして、もう一人、平野の同級生でピッチャーがいましたので3人ベンチ入りしていた中の一人ということでしたね。
甲子園で平野が投げたのは準決勝の東海大相模戦。その試合は1対11と大差で負けてるんですけど、結果的にたくさん打たれていましたね。あの時調子は悪くなかったですよ。2年春の段階で、スピードも140キロ出てたいたと思いますし。指にかかったいいボールもいってたと思います。ただフォアボール連発で壊れるようなコントロールの悪さではないですが、あの試合も真ん中にボールが寄って、よく打たれました。当時は平野が決め球としているフォークは無かったと思います。あれは大学に行ってから投げ始めた球だと思います。練習で投げたことはあったかもしれませんけど、高校の時はスライダーとストレートぐらいだったと思いますね」
1年秋の新チームになった時から、ベンチ入りは果たしているが下級生エースというわけではなく、あくまでも3人の中の1人。そしてそれは最高学年になっても変わらなかった。
「最上級生になった時も左の古田 大将(明治安田生命)というピッチャーとサイドのピッチャーがおりました。体格その他から考えたら平野が一番いいんです。だけど、主戦となったのは古田で、コントロールが良くていつでも変化球でストライクが取れるピッチャーだったんです」
ベストピッチングは最後の夏の平安戦そのため平野は最後までエースの座をつかめなかった。高校時代、公式戦は1試合を除いて全てリリーフとしてマウンドに上がった。唯一、先発を任されたのが3年春の京都府大会二次戦初戦の京都学園戦。選抜から帰ってきて最初の公式戦でチームを勝利に導く見事なピッチングを披露した。ただ実はこの試合について教えてくれたのは卯瀧監督ではなく、たまたま部屋にいた立命館宇治の里井 祥吾監督だった(里井監督は卯滝監督の教え子で鳥羽高校時代は平野と同級生。2015年より卯瀧監督の後を引き継いだ)。卯滝監督はこの試合についてあまり印象に残っていない。
平野 佳寿(オリックス・バファローズ)
「どちらか言うたら夏のエースは平野だと思ってたんですよ。平野は2年生の夏に腰が張って。秋の大会はほとんど古田が1人で投げとるんですよ。平野がベンチ入ったのは準決勝ぐらいちゃうかな。それまで2ヶ月近くピッチンングもしてなかったですよ。決勝で古田が打たれて平野を投げさせたらいいピッチングをして、7回に同点に追いついたんですが雨でノーゲームになったんですよ。再試合が翌日、ノーゲームとなった試合で良い投球を見せていたので先発は平野で行こうかなと思ったんです。けど結果、古田でいって古田で優勝したんで平野は記録に残ってないと思います。でもあの日は故障明けで、練習試合も投げずに古田が打たれたんで代えたらいいピッチングしました。
ただ、未だに言われても春の京都学園戦の投球については印象に残ってないです。能力は素晴らしいですし、軸にしたい思いはずっとありました。夏の大会を前にして6月の下旬からは良い投球を見せるときはあったのですが、常ではなかったですね。その年の夏の甲子園で準優勝する近江高校とお互い大会前最後の練習試合をやったんですが、あの時も1点だけ取られてそれが平野だけ取られた1点やったかな。それで、やっぱりまだ使うのは厳しいと。好投する古田の株が上がるんですよ。向こうもあの年3枚のピッチャーを擁して、うちも最終戦ですから3人のピッチャーを3イニングずつ投げさせたんですが、やっぱり近江の3人と比べると上に勝ち進むにつれてしんどいというような印象を受けましたね。
出来れば古田と平野と交互にしたかったんですけど、最終戦もそんな感じやったですね。平野の投球で凄いと思ったのは、最後の夏の大会準決勝の平安戦です。この試合、中盤まで勝っていたのですが、古田が打たれてしまい平野に代えたんですが、あの日は素晴らしいピッチングをしました。この試合が平野の高校時代のベストピッチングではないでしょうか。平野ってこんだけボール投げるんかと。それやったらもっと早くやってよというぐらいにね(笑)。ノビノビとしたマウンド捌きであの日はいいピッチングをしたと思います。ストレートが走ってますから相手はストレートに的を絞るんで、変化球も生きますからね。平安の子がみんなあいつのストレートに振り遅れてましたから。左バッターがサードにファールフライ上げるんです。いいボール放ってましたね」
京都産業大で大きく変わった平野 佳寿(オリックス・バファローズ)
「高校時代は控えが多かったですから、よくお父さん、お母さんが『先生、うちの子はいつになったら試合に出るんですかね』とおっしゃるんですが、『お母さん、体の出来具合や何やかんや考えたらこの子は二十歳ですよ』って言ってたんですよ。そしたらホンマに京産大に進んだ二十歳から台頭しました。そしたらプロ行く前にお母さんが『先生が言ってたように二十歳信じて待ってて良かったです』と言ってました(笑)。高校時代、もう少し体重が増えて、体格が良くなればもっともっとこの長い手足が利用出来て良くなるのではないかと思っていました。高校時代は背番号1は1回も着けてないと思います。
平野の性格ですか?一見控えめ、と言いますか普通の高校生ですわ。ただ物事をよく考えて行動できる普通の高校生だったと思います。行動面で目立つわけではなかったですが、芯の強いところはあったと思いますね。勉強もオール4ぐらいで、勉強もしっかりやったと思います。だから普通の高校生でその中で芯の強いところもあったということですかね。なかなかエースとして芽が出なかったですから、京都産業大学さんでうまいこと育ててもらい、オリックスでまたうまく育ててもらってると思いますよ。それは中学の頃から手足長くて指も大きくて恵まれたものを持ってる中で、専門的なトレーニングなどをしたり、投手としての心構えを学んで、自分のモノにしたことで、平野は大きく伸びたと思います。
特に大学からはエースとしての自覚を育ててもらったと思います。大学の監督さんにはよく叱られてたみたいですね(笑)。新聞に出ていた記事を見ると、プロに行く前に大学の2年生か3年生の頃にすごく叱られてそれ以来変わったと。それがどんな風に変わったかは書いてなかったですが、あれ以来変わったという記事がありましたし、きっかけってあるんやなと思って、そういう意味では京都産業大学の監督さんにうまく育ててもらい感謝しています。オリックスでも同じように、自分が一人で育ったわけではなくて、チャンスをもらってそのチャンスをものにしていった結果が今ではないかなと思いますね」
素晴らしい素質は持っていても、なかなか開花できなかった高校時代。京産大へ進み、エースとしての自覚を学び、ドラフト上位候補と呼ばれる投手となった平野は、その後、一本立ちどころか大エースとなり、プロでは9回のマウンドを任され、ついには日の丸を背負うまでになった。
「平野が日本代表に選ばれたことを夜の速報の段階では知らなくてですね、知り合いの新聞社の人からのお祝いメールで知りまして、慌ててインターネットで見たら平野の名前挙がっていました。あくる日の朝電話して、良かったな、頑張ってと彼に話しました。WBCでは中継ぎをするのか、抑えにまわるのかという使われ方ですが、使われた時には信頼を得られるようにいいピッチングをしてもらいたいという一ファンの思いです(笑)。シーズンでは早めに調整して入ってるので1シーズン、彼が思ってる通りの活躍が出来ればと思ってますね」
(取材=小中 翔太)
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