ヒューストン・アストロズ 青木 宣親選手(日向出身)「失敗しなければ自分のことは分からない」

写真拡大 (全2枚)

 3月に迫った第4回ワールド・ベースボール・クラシックでは、プレー面だけでなく、精神的な支柱としても期待されるヒューストン・アストロズの青木 宣親。ヤクルトスワローズ時代は2年目に首位打者、3年目に盗塁王を獲得。12年からは活躍の場をメジャーリーグに移すなど、充実一途なプロ野球人生を送るが、プロ入りまでの道のりは決して順風満帆ではなかった。青木はいつから、なぜ人よりも先を歩くようになったのだろうか。

ただ漠然と練習をしていた高校時代

青木 宣親選手(ヒューストン・アストロズ)

 小学6年生のときには全日知屋スポーツ少年団のエースとして宮崎県大会優勝を果たしたことはあるものの、富島中学時代は目立った実績はなく、投手として公立の日向高校に進学。授業が8時限まである日もあり、野球部の練習時間は1時間半から2時間ほどで、青木は野球漬けとは無縁の3年間を送ったという。

「いわゆる野球の強豪校ではなかったですし、追い込んでやっているとかではなく、どちらかといえば好きな野球を楽しんでやっている感じでしたね。根詰めて、1日中練習みたいな高校ではなかった。だからプロ野球選手になるなんて想像もできなかったですね。小学生くらいまではプロ野球選手になりたいなとかって思ってはいましたけど、中学、高校と段々、現実を見始めるというか。まわりにすごい選手とかがいたとかではないんですけどね。

 甲子園も、もしかしたらみたいな淡い気持ちは持っていましたけど、実際には厳しいのかなと正直、思っていました。それに中学、高校はいろいろなことに興味がある時期で、野球だけに一生懸命にはなれていなかった。友達と楽しくやっているのが1番居心地が良かったり、本当に普通の高校生だったと思います。今の高校生たちの方が練習している気がしますね」

 現在の進化を求め続ける姿からは想像がつかないが、その言葉のトーンからは、それが謙遜などではなく、本心ととらえてよさそうだ。だからといって、もちろん練習で手を抜いていたわけではない。専用球場があるとか、恵まれたウエイトトレーニングの施設があるとかではなかったが、幸い学校には長い坂道があった。

「結構、急勾配で長さも100メートルくらいある坂道で毎日20本くらいは走っていたのかな。投手は走るメニューしかやらなかった感じでした。でも、走り込みとかもやっていましたけど、自分から量を増やすとか、そういうこともなかった。甲子園もプロも現実的じゃないと考えてしまっていたから、なにを目標にしていいのかわからなかった。ただ漠然と練習していましたね」

最後の夏が終わって真剣に野球に向き合うようになった

青木 宣親選手(ヒューストン・アストロズ)

 運良くセンスのいいメンバーが多かった代だったといい、3年の春には県大会で優勝を果たしている。だが、結果を手にしても意識に変化は生まれなかった。

「県大会の決勝は覚えていますよ。相手は高鍋で、4点ビハインドの9回裏に追いついて、11回裏にサヨナラ勝ち。その試合は特に記憶に残っていますね。九州大会の初戦は福岡の東海大五で、今度はサヨナラ負け。でも、県大会で優勝できたから夏もいける、というふうにはならなかったです。甲子園はさすがに難しいんじゃないかなって。だからそこでスイッチが入ったとか、自分が変わったというふうにはならなかったです」

 県内では注目される投手にはなっていたが結局、夏はベスト8で敗退。振り返ると、悔いしか残っていなかった。「最後の試合に負けてから、好きな野球と真剣に向き合っていなかった自分がすごく嫌になりました。もっとやれるというのはわかっているのに、そうしてこなかった。後悔しました。そこからですね、火がついたのは」

 青木は誓いを立てる。「大学に行って4年後にはプロ野球のドラフトにかかる」初めて本気でプロを目標にし、必死で練習すると決めた。幸い1年の終わりころから勉強に力を入れてきたのが奏功し、指定校推薦で早稲田大学に合格。投手ではなく、外野手として野球部の門を叩いた。

「投手に未練はなかったです。足も速かったですし、肩もわりと強い方だったので外野手としてプロを目指そうと。でも、そもそも練習してこなかったので、最初は全体練習にもついていけませんでした。全然、量が違いましたから。まずは練習についていけるだけの体力をつける。そこからでした。ついていくので精一杯だから自主練習なんてできなかった。

 1年生のときは、そんな感じでした。きつかったですよ。それまでやってこなかった人間が、毎日、毎日、練習したり、野球のことを考えたりする。習慣づいていないので、はじめはきつかったです。外野守備の動きも全然できていなくて、前に出て頭の上を越されたり、打球判断もできないし、カットまでの送球もきちんと投げられなかったり。その頃を知っている人は、僕がプロになるなんて誰も考えていなかったと思います。そんなレベルでした。でも、僕だけは自分を信じていた。プロに行くと決めてからは自分の中では一生懸命やってきたつもりです。それは今も変わらないです」

 目指すものを持つことで青木は強さを身につけ、困難も乗り越えられるようになった。当時、監督だった野村 徹の言葉も青木の覚醒を後押した。

「野村さんはいつも『一球入魂』とおっしゃっていて、1球に対して集中する大切さを学びました。試合ではやり直しはできないですから、1発で決めなくてはいけない。練習でも10回やって3、4回できるよりも、1回で必ず成功できるようになれと。僕は注意力散漫だったし、投手から外野手になったばかりでミスも多かったので特に言われましたね」

体が大事だからこそ、毎日、頭の中で何をするべきか整理する

青木 宣親選手(ヒューストン・アストロズ)

 1年の冬には肩を痛めて半年間球を投げられなくなり、みずからの体に対する意識の低さを後悔したが、すぐに前を向けたのも強い信念があったからこそだった。「手術をしなければいけないかもしれないと言われて、自分はなにをやっているんだと思いましたけど、そこで体のケアが大事なんだなと。体のことをもっと見つめ直さなければダメなんだって。そこから、いろいろなことを自分でアンテナを張って勉強するようになりました」

 意外に思うかもしれないが、プロ入り前の青木は失敗を糧に自分を変えてきたのだ。「失敗しなければ自分のことはわからない。僕はそう思います」

 努力が実を結ぶのは3年になってから。春はベストナインに選ばれ、秋は首位打者も獲得した。39打数17安打、打率.436。プロが視界に入ってきた。だが、浮つくことはなかった。「六大学で首位打者を獲れたので、これで可能性が出てきたのかなとは思いました。でも、気持ちはなにも変わりませんでした。大学に入ったときと一緒で、毎日100パーセントやり切って終える。それだけでした。他の選手よりも高い意識を持ってやっていたという自負はあります」

 ヤクルトに入り、プロ意識の芽生えがさらに青木を上へと押し上げた。

「プロはまずは結果を残さないといけない。結果を出さなければ評価してもらえない。だから、バッティングにしても盗塁にしても、それまで以上に、どこを意識して練習するのか、トレーニングするのかを大事にするようになりましたね。大切なのは自分の感覚と実際の動きをいかに一致させるか。結局、大事なのは体なんです。相手がどんなピッチャーでも、バットを操って打つのは自分の体なわけですから。その体のメカニズムをしっかり覚えるとか、なぜ打てたのか、打てなかったのかを毎日、頭で整理しています」

 イメージ通りの動きを実現するために、道具にも強いこだわりを見せる。特に走、攻、守すべてに関わるスパイクは「安定性」を求めて、2016年から他社と比べて刃が外側についていて横ブレしにくいニューバランスのものを使うようになった。「他社のものと比べると、誰でもわかるくらいの安定感があります。日本で販売されているスパイクは軽量化が進んでいる気がしますが、それはそれでいいとは思いますが、それによって安定感が失われがちだと感じるんです。ニューバランスは着地した時のフィット感とかも全然、違う。最大限、パワーとスピードを生かせている実感がありますね」

 最後に高校生へのアドバイスを聞いた。「高校生はまずは楽しくやればいいと思うんです。うまくなるためにストイックにやろうと思って頑張ることもいいですけど、みんながそうでなくてはいけないわけでもない。野球を楽しんでやる中で自分に必要なもの、そのときやるべきことを見つけていくという考えでいいと思います。やっぱり野球は楽しいものですし、楽しんでほしいです」

(インタビュー・文/鷲崎 文彦)

注目記事・【1月特集】「2017年は僕らの年に!」