興南と沖縄尚学の完全2強だが、中部商や美里工も台頭(沖縄)

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 現在は、高校野球の中でも強豪県の一つとして挙げられる沖縄県勢。しかし、歴史的には沖縄の高校野球は戦後の近代日本史の一部でもある。戦後、日本の領地ではなかったということは避けようのない事実でもあるのだ。そして、1972(昭和47)年に沖縄県として正式に復帰するまでの歴史と、その後という意味では、高校野球の視点からでも大きく様変わりする。

三段跳びで力をつけてきた沖縄の高校野球

興南

 本土復帰前までの歴史の途中では68年に、記念大会の1県1校の沖縄代表・興南が快進撃をする。一つ勝つ度に甲子園の大きな拍手や声援も味方につけながら、あれよあれよと勝ち進んでベスト4にまで進出した。さすがに準決勝では優勝した興國に力尽きる形で大敗してしまったが、この「興南旋風」は本土復帰への強烈なアピールとなった。

 同時に、実はその後へつながっていく強い沖縄へのプロローグでもあったのだろう。だから、ある意味では沖縄の高校野球の本当の意味でのスタートはこの第50回大会からということもいえるのではないだろうか。それまではどうしても遠来の地から来たゲストというような印象があったのはぬぐえない。そして、本当の意味で全国の強豪校と対等になったのは、やはり本土復帰後の昭和50年代に入ってからだ。

 沖縄の高校野球の最初の一歩、つまりホップが63年夏に日大山形と未勝利地区対決となった首里の初勝利だ。そしてステップが興南のベスト4だった。さらに、大きくジャンプしたのが豊見城の登場ということになる。いうならば、歴史的な三段跳びで沖縄の高校野球は徐々に力をつけていったのである。

 本当の意味で沖縄の野球の力が全国で評価されてきたのは、栽 弘義監督が豊見城で指導するようになってからだといっていいだろう。75年春には赤嶺 賢勇投手を擁してベスト8。続いて76年、77年夏には連続でベスト8。石嶺 和彦(阪急・オリックス→阪神)などプロで活躍する選手も多く登場するようになってきた。洗練された試合運びと、強烈なバットスイングや機敏な野手の動きなどは、明らかに新しい沖縄の野球、強くてソツのない沖縄の野球の原形でもあった。

 その沖縄の選手たちの逞しさも光った。天性の素質のよさを持つ選手が技を備えただけではなく、徹底した練習量によって鍛え上げられていったという印象だった。それに、自然の中で育ってきた選手たちが、好きな野球を本当に素直に楽しむというスタイルがうまく融合した。

甲子園上位の常連となっていった沖縄

沖縄水産

 沖縄という日本では飛び抜けて温暖な地で、冬でもボールを握ることができるということ、日没時間にしても東京あたりに比べても1時間近くは遅いのも大きかった。北海道などと比較すれば2時間近く違うかもしれない。それを考えれば、単純にそれだけでも1年を通してみてみればボールを握ることの出来る時間は相当違ってくる。正味2年半でチームを作り上げなければならない高校野球の場合、この差は考えてみれば大きいといえよう。

 沖縄がある程度物質的に整ってきたことによって、野球に取り組みやすくなってきたということが、そのままチーム力を上げることにつながっていった。栽監督が沖縄水産へ異動になると、今度は沖縄水産がさらにそれに逞しさを備えて本当に力強いチームとなって出場してくるようになった。沖縄水産の場合は実業系ということもあって、全県から選手を獲得しやすかったということもチーム作りという点では有利に働いた。

 沖縄県の悲願でもある甲子園の優勝のチャンスが近づいてきたのは80年代後半だ。88年夏にベスト4に進出。そして、90年夏、ついに初の決勝進出。天理に0対1と惜敗したものの、もう優勝旗はそこまで手の届くところに来ていた。その翌年も前年から試合に出場していた大野 倫(九州共立大→読売→ダイエー)がエースとなって、肘を傷めながらも力投。再び決勝に進出する。乱戦の末またしても決勝で敗れるものの、もはや沖縄は上位の常連の力になっていた。

 甲子園の拍手もいつしかその強さへの共鳴の拍手に変わっていた。しかも、強さを示すのは沖縄水産だけではなくなっていた。94年には優勝候補の筆頭で、何人ものプロ入り選手がいた横浜を倒した那覇商や、97年にベスト4に残った浦添商なども、沖縄代表の逞しさを印象付けるチームだった。これは県全体の底上の証明でもあるといえよう。

指導者たちの取り組み

沖縄尚学ナイン

 沖縄が強くなった背景のもう一つには指導者たちの様々な努力と工夫もある。具体的には、毎年2月頃に加盟各校の野球部の総合運動能力競技会と県外チームを積極的に沖縄に呼んで練習試合を積極的に組んでいる。温暖な気候も十分に役立っている。通称“海邦リーグ”などとも呼んでいた大規模練習試合を組んでいるのである。

 沖縄のチームにしてみれば県外のチームとの試合ということで、より新鮮な気持ちで試合をすることが出来る。他県の強豪との試合を通じて、意識もレベルも高くなっていくことになる。それを指導者たちが積極的に取り組んでいこうという姿勢が強くあるのも、沖縄の高校野球のレベルが上がっていった要素の一つとなった。

 沖縄の悲願の達成は99年春に沖縄尚学が優勝することで実現される。「甲子園で沖縄勢が優勝して始めて沖縄の戦後は終わるのだ」という人もいたくらいだ。それが20世紀の終わりだったということがあたかも、時代を象徴する出来事のようでもあった。

 さらには01年春、21世紀枠で出場した宜野座が岐阜第一、桐光学園などを下し、ベスト4に進出。03年春にも甲子園出場を果たして、強さを立証した。中部商は生涯スポーツ科を設置して運動能力の高い生徒を多く入学させている。02年夏、04年夏には甲子園に出場を果たした。06年に春夏連続出場を果たした八重山商工も、甲子園に強烈な印象を残したチームだった。

 そんな下地が出来上がっていった中で、08年春に、沖縄尚学が2度目の優勝を果たす。初優勝時の比嘉 公也投手が母校の監督となって3年目のチームだった。そして、“強い沖縄”の決定打となったのが、2010年の興南だった。かつての沖縄の最初の旋風を巻き起こした興南が、今度はあっさりと春夏連覇を果たしてしまうのだ。史上6校目の快挙になったのだが、それを沖縄勢が果たしたのである。チームを率いたのは、最初のベスト4の時代に主将を務めていた我喜屋 優監督だ。

 こうして、沖縄県は全国制覇を果たしている沖縄尚学と興南の両校が2強として、圧倒的な強さを示している。また、14年春に出場した美里工や10年春と16年夏に出場している嘉手納、11年夏と15年春に出場を果たした糸満なども、強い沖縄の代表として甲子園でアピールした。新しい勢力としては美来工科、知念、宮古総合実なども興南と沖縄尚学の背中を追いかけている。

(文:手束 仁)

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