昔の乗り物はレトロ感があってオシャレに見えますが、乗り心地はとても悪かったそう。今では私たちの生活に欠かせない「バス」も、日本に登場した当初は乗り心地が悪く、高コストで、なかなか一般には浸透しなかったようです。そんなバスの利用が、ある出来事を境に一気に拡大します。今回は、大正期に走っていたバスのお話です。


人気のなかった「バス」が都民に浸透した出来事とは



私たちの生活で当たり前になっている移動手段のひとつ、バス。
明治時代になると日本にも登場するのですが、実は、バスはなかなか庶民の日常に浸透しませんでした。
一番の交通手段は新しくできた「鉄道」であり、道路の上を走る「路面電車」。
当時のバスは乗れる人数も少なく、乗り心地も悪く、しかもクルマ自体が高コスト……。
大衆化するには問題がいろいろとあったのです。

そんなバスの信頼性が一気に飛躍した、大きな出来事があります。
大正12年に起こった、関東大震災です。
マグニチュード7.9の未曾有の災害。
街はガレキの山となり、線路は寸断され、鉄道は全く使えない状態になってしまいました。
そんなときに活躍したのが、当時「円太郎バス」と呼ばれていた乗り物。
なかなか復旧しない鉄道の代わりに、人々の移動手段として使われたのです。

「円太郎バス」という不思議な名前は、もともと「円太郎馬車」という乗合馬車に車体が似ていたことから付けられています。
「円太郎」とは落語家の4代目・橘家圓太郎のこと。
この人物が、乗合馬車の御者(馬車を走らせる人)のマネをして大いにウケたことから、馬車自体が「円太郎馬車」と呼ばれるようになりました。

円太郎バスは、震災後、路面電車の代わりの交通手段として、アメリカ・フォード社から貨物自動車用のクルマを緊急大量輸入し、改造して使われました。
44台のバスを、「東京駅前〜巣鴨」と「東京駅前〜中渋谷」の2系統で走らせ、3分間隔で運転。
2ヵ月後には800台、20系統、総路線距離148kmにまで拡大されました。
これが「都営バス」の始まりです。

最初は路面電車の回復を待つまでの代替手段だったバスが、街が復旧する頃には人々にとってなくてはならないものに変わっていました。
こうして、バスは東京の交通手段として不動の地位を手に入れることになったのです。

フォードTT型を流用して造られた円太郎バス。
現存する唯一の円太郎バスは、2007年からは鉄道博物館所蔵のもと、東京都交通局に保管されているそうです。
震災の大変な時期に、東京の人々を助けたバス。
一度見てみてはいかがでしょうか。

文/岡本清香

TOKYO FM「シンクロのシティ」にて毎日お送りしているコーナー「トウキョウハナコマチ」。江戸から現代まで、東京の土地の歴史にまつわる数々のエピソードをご紹介しています。今回の読み物は「震災で人を救った、円太郎バス」として、4月14日に放送しました。

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