82歳筆者が見た、「クローズアップ現代」最終回...昭和一桁世代が、平成生まれに共感すること
国谷裕子さん最後の出演となった、2016年3月17日の「クローズアップ現代」(NHK)が取り上げたのは、今を生きる若者たちの姿だった。閉塞感漂う日本社会に、新たな価値観で変革をもたらそうとする、平成生まれの世代。
昭和8年(1933年)生まれ、大戦のさなかに少年期を過ごした筆者は、彼らの姿に期待を抱くとともに、ある種のシンクロニシティを感じたという。
ともに「失われた十数年」を生きた世代の親近感
3月17日、23年間続いたNHKテレビ番組で、国谷裕子キャスターによる「クローズアップ現代」が幕を閉じた。その業績もさることながら、最終回で取り上げられた「未来への風〜"痛み"を超える若者たち〜」の内容に強いインパクトと20代の若者たちの感じ方およびその問題に対する対処の仕方に大きな共感を覚えた。
冒頭では、閉塞感に満ち溢れた、この国の低成長時代にあって、明るい未来への希望も見失い、現状に諦めの気持ちを抱き、何事も内向き、無関心になり勝ちな若者たちの姿が紹介されていた。実は、それを観ていて昭和一桁生まれの私の中で、彼らの心情の中に或る面で奇妙に一致するが、他面では微妙に異なる鬱屈した、複雑な形の見えることに気付いた。
番組の中で「失われた10年あるいは20年......」という言葉が使われていたが、丁度この「失われた10年あるいは20年」のような時代が70〜80年位前にもあったのではあるまいか?それはいわゆる十五年戦争の期間の「失われた十数年」に相当するのかも知れない、と考えた。
この過去の「失われた十数年」と直近の「失われた十数年」とをそれぞれ耐えながら生き抜いたことで、この懸け離れた昭和一桁世代と、平成生まれとの間に、或る種の親近感が生まれたように感ずる。
それは、敗戦間際の閉塞され、明るい未来への展望も全く開けず、あらゆる面で不自由な生活を強いられた時代を通過した昭和一桁世代の置かれた状況とバブル崩壊以降の経済の低迷、雇用不安、非正規就労者に代表される労働者の使い潰し状態などの環境悪化に心身共にすり減らされる状況との間には、その具体的な内容に関し、両者間で大きく異なるものの、それらの若者たちから楽天的で、建設的な未来志向を奪い去った、という点では共通している。
十五年戦争末期で、敗戦に向かい急速に凋落して行く日々は、一般国民、特に当時少年だった私のような世代は、飢えに苛まれ、住み慣れた街が為す術も無く無残に破壊されて行くのを手を拱いて観ているより外ない、虚しさを感じながらも、軍国国家による徹底した支配、教育によって、最後の勝利達成のために、銃後の少国民たちは「間もなく自分等も銃を取り、お国のために率先して命を捧げるのだ」と信じ込み、それをあからさまに疑ったりするようなことは、そもそも許されぬ雰囲気に満ちていた。その意味では、それら若者たちには、既に成人して、より自由で、かつ確固とした信念を持つが故に国の有様を憂い、己の身の処し方に悩む、ごく限られた人々のようなことは、当然無かった。
だから、当時余り深く考える余裕も無かったし、徹底的に洗脳され、疑うことを知らぬ当時の若者たちは国の掲げる「一億玉砕」のスローガンに身を任せて、自ら悩むことを放棄していたとも言える。
逆説的だが、その点では、当時むやみに悩む事が無かっただけ気楽だったのかも知れない。無論、冷静に分析すれば、そこには捨て鉢で、諦めきった虚しさが漂って居たことも否めないのだが......。
現政権も、どこか似通った「一億総活躍社会」というアドバルーンを打ち上げているが、これについて盲従的な賛成意見もあるかも知れぬが、バブル崩壊からの鬱屈した「失われた十数年」を体験してきた多くの、考え、判断する若者たちは、大いに違和感を覚えながら、一方で諦めてみたものの、ただ不平不満を述べるだけでは結局、何も解決しない、と気づき始め、自ら声を上げ、行動し始めたのであろう。
昨年の夏頃から、安保法制反対運動を展開してきたSEALDsリーダーの一人が「じいちゃん、ばあちゃん達が"戦争"、"せんそう"ばかり口にするのを、何だよぉ、って思ってたけど、話を聞いて置いて、本当によかった」と告白するのを耳にして、戦争時の「失われた十数年」を体験してきた世代の危惧が、バブル崩壊後の「失われた十数年」を通過した平成の若者たちの心にも伝わったのだろうか?と、或る種の安堵感と共に「この国も未だ捨てたものではない」という頼もしさをも同時に感ずることが出来た。
更に、番組の中ではNPOバンクを設立し、貸し出しについて、経済性のみに目を向け無い、新しい評価基準を導入して弱者に関連する地域の課題に積極的に投資する若者たちや、敗戦後からずっと実質的な占領状態の続く沖縄に、一方的に負担のみを押しつけ、未だに根本的な解決に至っていない、いわゆる沖縄問題について映画を製作した若者たち、また東北大震災にボランティアとして参加することにより、人々の"痛み"を識った若者たちが、イデオロギーに左右されない、政治的、社会的活動に積極的に加わって行く姿も紹介されていた。
ゲスト出演されていた柳田邦男氏が「これまで大人達が無責任に積み残し、先送りしてきた問題について、若者たちは不平不満を述べるのでは無く、自ら声を上げ、それらを解決すべく積極的に参加して行くという、今や大きな歴史的転換点にある」と発言されていたが、この動きが大きな奔流となって将来、望ましい社会が実現するなら、この両「失われた十数年」も無意味な欠損の時代として片付けられ無くなるのかも知れない。