女王陛下の大砲が徳川幕府を開いた/純丘曜彰 教授博士
すでに1587年、今は亡き秀吉公が伴天連追放令を出し、連中を長崎の平戸に追いやったはずだ。にもかかわらず、連中はそれを無視して大坂城に駆け込んで来て、ようやくに助かったこの男を、即刻、海賊として処刑すべきだ、などと、幼い秀頼公に奏上する。なにかおかしい。大老家康は、本人から直接に話を聞くことにした。
1600年4月、かつてキリシタン大名大友宗麟が支配していた豊後(大分)臼杵城沖に難破船が漂着した。ところが、これはいつもの南蛮(ポルトガル)船ではなかった。オランダなどという聞いたこともない国。しかも、この男は、オランダではなく、イングランドとかいうまた別の国の者。いったいどうなっているのか。
第一に、南蛮人たちの母国、ポルトガルなどという国は、すでに実在していなかった。国王が北アフリカ西岸の要衝モロッコの侵略に失敗して戦死。1580年には同君連合として実質的にハプスブルク・スペイン帝国に吸収されてしまっていた。第二に、カトリックの伴天連は、ヨーロッパで腐敗世俗化し、そのためにプロテスタントの宗教改革が起きて、ユグノー戦争やオランダ独立で敗北、海外に活路を求めざるをえない状況だった。第三に、スペインやポルトガル、その外交代理で金融商社の伴天連は、新大陸の鉱山開発とプランテーション経営で原住民インディオを使い潰してしまい、アフリカ諸国から武器の対価として黒人を奴隷として買い付けている。第四に、アジアではスペイン・ポルトガルとオランダ・イングランドが植民地獲得で争っており、日本での伴天連の貿易や布教もまた傭兵軍団と性奴隷の調達こそが本当の目的である。
そして、第五に、最大の問題は、連中が日本にもたらしていた武器が、ヨーロッパでは数百年も前のガラクタだったこと。フランキ砲。青銅鋳造の大砲。九州の大名らは、これ欲しさに、次々ころころとキリシタンに改宗していった。ところが、こんなもの、百年戦争(1339〜1453)のころのオンボロで、口径8センチなのに、カートリッジには、それより小さな弾。隙間のせいでラッパのように爆音はすごいが、弾が砲内をゴロゴロと転がり飛んでいくだけの見かけ倒し。そもそもヨーロッパでは、こういう使いものにならない大砲から、携帯可能で命中精度の高い鉄砲ができてきたのであって、その逆ではない。
しかし、これは、アフリカ人やアジア人の馬鹿な殿様どもを「南蛮漬け」にする御進物としては好都合だった。というのも、このガラクタは、ランニングコストが莫大だったのだ。鉄砲でも1発に3gの黒色火薬を使う。その価格は米1升(当時約7百円)。ところが、日本には火薬の原材料、硝石が無いのだ。大砲は弾と等重量以上の火薬を必要とする。まして爆風漏れだらけのフランキ砲。鉄球6センチ1?だと、1発で30万円。ちょうどポルトガルの性奴隷1人の買値が2貫目(約30万円)。火薬が欲しければ、女を差し出せ。火薬樽50?のために50人の娘を売り渡すのが常態化していった。さらに、連中は、キリシタン大名を使って日本全土を自分たちの植民地にすることすらたくらんでいた。
今度(このごろ)、伴天連ら、よい時分と思いそうろうて、種々様々の宝物を山と積み、いよいよ一宗(キリスト教)繁盛の計略を廻らし、すでに五島、平戸、長崎などにて南蛮船着くごとに充満して、その国の国主を傾け、諸宗をわが邪法に引き入れ、それのみならず、日本人を数百、男女によらず黒船へ買い取り、手足に鉄の鎖を付け、舟底へ追い入れ、地獄の苛責にも優れ、そのうえ牛馬を買い取り、生きながら皮を剥ぎ、坊主も弟子も手ずから食し、親子兄弟も無礼義、ただ今世の畜生道のありさま、目の前のよう、と、あい聞きそうろう。これは、1587年に秀吉が九州攻めのときの状況。表現に伝聞の誇張はあるだろうが、連中が買った大勢の日本人の傭兵や性奴隷の国外での存在は、他の史料などでも裏付けられている。だからこそ、秀吉は、ただちに伴天連追放令を出したのだ。
しかし、それにしても、この漂着者、なぜにそれほど伴天連に恐れられ、国際情勢と先端技術に詳しかったのか。ウィリアム・アダムズ、三浦按針、36歳。もともと船舶エンジニアで、「バーバリー(北アフリカ)会社」の元船長。この会社は、東インド会社と同じ特許貿易会社だが、じつは会社の実体が無い。株主だけの秘密結社、というより、カトリック支配と戦う女王陛下の国際特殊工作組織。
ヨーロッパで宗教改革が起こったとき、イングランドもまた、カトリックの専横を嫌って、1534年、ローマ教会とは独立の、国王を宗主とする国教会を創った。カトリック側のスペインは、スペインからの独立を計るプロテスタントのオランダ、それを支援するイングランドを攻撃した。おりしも1571年、オスマントルコがヴェネチア共和国から地中海東部の要衝キプロス島を奪う。同国は、先にも東ローマ帝国のコンスタンティノープル市を陥落させたごとく、イスラムの工学と化学の高い技術を駆使した圧倒的な火力を持っていた。一方、地中海西部でも、モロッコがジブラルタル海峡の出口、新大陸に渡る最後の港として注目を集め、ポルトガルがその侵略を試みるが失敗。そのせいで、1580年、先述のように、かえって強大なカトリックのハプスブルク・スペイン帝国が出現してしまった。
プロテスタント側は、対抗策としてエリザベス女王を盟主とする広域国際連合「薔薇十字友愛団」を計画。同1580年、イングランドは、オスマントルコとともに貿易合弁会社を興す。これがかのバーバリー会社。その中心は、女王の寵臣レスター卿(ロバート・ダッドリー)と、その兄の軍需総監ウォーウイック卿(アンブローズ・ダッドリー)。建前はモロッコの活用だが、内実はトルコからの大量の火薬と先進の大砲の調達。そして1588年、イングランドは、爆薬満載の火船「マクナスデミナス」と長砲身長射程のデミカルヴァリン砲とを駆使して、スペイン「無敵」艦隊を撃破。このとき、イングランド艦隊への弾薬輸送を担当していたのが、バーバリー会社船長、若きアダムズだったのだ。
この話を聞いた家康は、ただちに漂着者アダムズを江戸に招き、二五〇石の旗本に取り立てる。しかし、このころ、石田三成は会津国上杉家と図って家康の排除を画策。上洛しない上杉家に対し、家康は7月、秀頼の命として上杉征伐に出向く。この機に乗じて、8月、後から三成が挙兵。そして、10月の関ヶ原の合戦。ここにおいて三成は、フランキ砲5門を笹尾山陣地から撃っているが、威嚇以上の効果は無かった。
重い大砲を山に担ぎ上げ、広い野原の空に向け、当ても無くぶっ放す、などというのは、その運用方法として大きく間違っている。家康はアダムズに大砲を載せる軍艦を作らせるとともに、イングランド本国から東インド会社を平戸に呼び寄せ、直接に最新物資の調達を図る。同時に、伴天連の術策に騙されて人を売り、国をも売る愚かなキリシタン大名を潰していき、14年11月には伴天連も完全国外追放。そして、同年末の大坂の陣までに、イングランド製の小型長射程セイカー砲1門と鋼鉄製カルヴァリン砲4門、オランダ製の中射程デミカノン砲12門、その他、堺や国友の鉄砲職人たちに作らせた改良新型の強靱な国産鍛鉄大砲、総計百門を揃えた。これらは、大坂方が保有していた時代遅れのフランキ砲をはるかにしのぐ飛距離と命中率を誇っていた。
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)