『十三億分の一の男』峯村健司(小学館) ブックレビューvol.5/竹林 篤実
中国主席になり損ねた男
その人物は、目の前に座っていた。とある公益財団法人の訪中団に入れてもらい、中国レポートを書く仕事をしていた時のことだ。ツアーが始まった大連で市政府主催の歓迎レセプションが開かれた。そこにいたのが大連市長だった薄煕来氏である。当時、薄氏は50歳前後だったはずで、恰幅がよく大物オーラを漂わせていた。
本書によれば薄氏は、後に中国共産党内での地位を高めていき、2007年には重慶市長となっている。中国では市長職はよほど儲かる仕事だったようで、最終的に薄氏は、約4億円の賄賂を受け取っていたとして逮捕・収監された。蓄財は最終的には7200億円に上ったといわれている。
重慶市長だった薄氏を追い落としたのは、習近平氏、2012年11月、中国共産党総書記に就き、2013年より中華人民共和国主席を務めている。
ハーバードにいた息子と娘
習近平氏には一人娘がいる。その名は習明沢、2010年に米・ハーバード大学に入学し、4年間かけて心理学を学んで卒業、帰国したとされる。本書では、その大学生活をハーバード大の寮まで追いかけて取材している。腐敗撲滅を訴え、倹約をもって良しとする習近平氏としては、高額な費用がかかる海外留学に娘を送り出していることは、可能な限り隠したい事実だろう。
けれども、中国要人の子弟がハーバード大学をはじめとする、アメリカやイギリスに留学に出ていることは周知の事実である。薄煕来氏の息子、薄瓜瓜氏もオックスフォード大学に学んだ後、ハーバード大学院に進んでいる。
もっとも、習明沢氏が身分を隠した上、寮で極力質素な暮らしを送っていたのに対して、薄瓜瓜氏は高級マンションに暮らし、派手に遊んでいたようだ。
中国では、政府要人が子どもや妻(時には愛人)をアメリカをはじめとする海外に送り出すのは、ごく一般的に行われていることだという。そこで永住権を取らせて、国内で蓄財した資産を送金する。アメリカは仮想敵国であり、今も南沙諸島を巡って軍事衝突の危険性がある相手だ。けれども、いざというときにはアメリカに逃げ込む。つまり、万が一の時には仮想敵国にいるほうが、母国・中国に引き戻されるリスクが減ると考えるのだろう。そんなメンタリティを持った人たちが、中国という国のトップ層には多くいる。
中国主席になるために
結果的には薄煕来氏は失脚し、習近平氏が主席に上り詰めた。この二人の成否を分けた要因が何だったのか。二人とも父親が共産党幹部であり、知性、バイタリティ共にどちらも遜色ないはずだ。本書によれば、薄煕来氏は不正な蓄財があったとされる。方や習近平氏には、いろいろ噂は飛び交っているけれども、公式にはそうしたものはない、とされる。
では、二人を分けたものは何か。本書を読んでみても、そこのところは今ひとつよくわからない。あえていえば、先々代の主席・江沢民氏と先代主席である胡錦濤氏の争いの間で、巧みに立ちまわった結果というのが、本書の解釈のようだ。これを本書では「共産党内部での権力闘争」と表している。
習近平氏は知人に次のように語ったという。
「私は三つのステップで権力をつかもうと思っている。まず、江沢民の力を利用して胡錦濤を『完全引退』に追い込む。返す刀で江の力をそぐ。そして、『紅二代』の仲間たちと新たな国造りをしていくのだ」(同書、P294)。
習近平氏は、自らの言葉で「権力をつかむ」と明言している。中国では共産党員が8600万人いる。その中で中央委員になれるのは205人、ここから政治局員25人が選ばれ、政治局常務委員が7人、そして頂点に立つのが総書記である。このピラミッドを上っていくために必要なのは、資格試験に合格することではない。もちろん与えられたポジションで成果を出すことは必要だが、成果だけで上に行けるわけではないのだ。
十三億分の一のメンタリティ
現在、習近平氏は62歳である。権力をがっちりと掴んだ氏が、考えていること何か。2013年3月17日に行われた、第12期全人代第1回会議の閉会式において習は国家主席として就任演説を行い、「中華民族の偉大な復興という中国の夢を実現するため引き続き奮闘、努力しなければならない」と語った。
中華民族の偉大な復興とは何か。その一つの答えとなるのが、南シナ海での動きであることは確かだろう。「九段線」を持ち出し、ベトナムやフィリピンに近い岩礁を埋め立てて自国領だと主張する。その背景にあるのは、あくまでも「中華民族の偉大な復興」である。この考え方は、中華民族以外の人には理解できない。
前回のブックレビューで紹介したイーロン・マスクのように「人類を救うために」何かを考えているわけではない。マーク・ザッカーバーグのように「世界を良い場所にしよう」と努力しているわけでもない。
けれども、ともかく十三億分の一にまで上り詰めた人物である。その知力、胆力、体力ともに常人ではないことは間違いない。そんな人物が、世の中には確かに存在することを本書は教えてくれる。
中国とはどういう国なのか。彼の地では、どのうようにものごとが決まっていくのか。本書は、そんなことを知るための格好の参考書となる。