江戸時代の子育てバイブル『養育往来』が、驚くほど“まっとう”だった

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慌ただしい毎日。日々成長する子ども。
「今のままの子育てでいいのか」と、ふと不安になるときはありませんか?

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なんとなく今の子育てに自信が持てない。そんなときは、まっさらな心で“先人の知恵”に学んでみてはいかがでしょう。

今回は、江戸時代の子育て指南書『養育往来』から、子育てのヒントを探ってみます。

『養育往来』とは?

『養育往来』とは、江戸時代、天保10年(1839年)に京都の書家・小川保麿によって著された書物です。優れた古人の金言や教えを拾い集め、庶民向けに編纂されたもので、“これを読めば江戸時代の子育て論がざっくりわかる”といわれるくらい、密度の濃い内容となっています。

では、さっそく読んでみましょう。
少々読みづらいのですが、一語一語噛みしめるように読むと、心にずっしりと響いてくるものがあります。

子育ては「樹を植え、育てる」がごとし

子育ては、しばしば“樹木の成長”にたとえられました。

「元来、小児は善悪共伝染り(うつり)易く、育て方に因(よ)って如何様にも相成るべし。(中略)
先ず四、五歳から添木を致すが如く、浸(みだ)りに繁らさず、勝手自由成る悪しき枝葉の蔓延(はびこ)らざる様、不行跡・我が儘を致させず、『それは然う(そう)せざる物、是は斯う(こう)致すべき事』と一々申し聞かすべし。」

【訳】※大意

もともと子どもは、善にも悪にも染まりやすいものであり、育て方によっていかようにもなる。
まず、四、五歳から添木をして、みだりに繁らせないようにし、勝手気ままな悪い枝葉がはびこらないよう、不品行やわがままをさせず、「それはそうしてはいけない、これはこうするべき」と一つひとつ教えて聞かせるとよい。

十尺(約30m)もの松の木も、一寸(約3cm)時から十分な手入れをすることで、樹齢千年にも及ぶ良材となる。子育ても同様に、小さい時の養い方がその後の“育ち”を決める、といいます。

小さい子でも「悪い行い」はきつく戒めよ。でも体罰はダメ

人としての「悪い行い」に対しては、たとえ小さい子どもであろうと厳しく戒めよ、と説いています。

「仮初めにも人を打ち擲く(たたく)などの類、〜(中略)〜 横着・不道(無道)の悪作は聊(いささ)かも之を許すべからず。何事に因らず悪しき行迹(ふるまい)有る節は、急度(きっと)、之を戒め、重ねて至させ間敷き(まじき)者なり。」

【訳】
仮にも人を殴ったり叩いたりなど、〜人の道に外れた悪行は少しも許してはならない。万事、悪い行いをしたときには厳しく戒め、二度と同じことをさせてはならない。

体罰による戒めに関しては、“嘆かわしい”として否定しています。
幼少のうちは人に従いやすいため、体罰によらず、親が威厳をもって善悪を教え、良い行動はおおいに誉め、人道に反する悪い行いは徹底的に戒める。そうすることで、それが習慣として身についていくといいます。

ちなみに江戸時代では、子どもが悪さをした時、近所の老人などがやってきて子どもと一緒に謝ってくれる「あやまり役」という慣習があったそうで、子どもにとっては、叱られた後のいい“逃げ道”が用意されていました。

現代では親と子が1対1になってしまうため、厳しく叱るにも工夫が求められますが、「悪いことは悪い」とはっきり伝わるような、メリハリのある叱り方ができるといいですね。

好き放題させるのは「本当の愛」とは言えない

『養育往来』が子育てにおいて最も重視しているのは、幼いうちから「悪」を戒め、人としての「善い道」を教えること。

幼いわが子の可愛さあまり、あるいはいちいち対応するのが面倒、などの理由で子どものわがままを許し、好き放題にさせることは「本当の愛情とはいえない」と述べています。

「一切の所作・挙働・衣食・言語に至るまで、一言の善き言を聞かず、一毛の佳き事を観ず、気随・気侭を佳しと為て(して)、正しき行いを知らしめざるが故に、其の風俗、常の癖と成り、しかも生涯を愆(あやま)つ者なり。
嗚呼、是をなんぞ子を愛すと云うべけんや。
悉皆(しっかい)我が子に害を加うる而己(のみ)。是を名づけて曲愛と曰うなり。」

【訳】
立ち居振る舞い・行動・衣食・言葉に至るまで、一言の良い言葉を聞かず、少しの良いことも見ず、自分の思うまま・勝手気ままをよしとして、正しい行いを教えないでいると、その習慣が常となり、一生を誤る。
ああ、これがどうして、子どもを愛しているといえようか。
ことごとく自分の子に害を与えるのみ。これを名づけて「曲愛」という。

愛情のあまり、自分の子を賢いと錯覚し、悪あがきすればしっかり者と思い、人に勝つことが好きなら「強い」と誉め、嘘をついて人をだませば「知恵がある」「賢い」などと誉める。

また、“子どものためを思って”いつも子どもが喜ぶような美服を与え、三度の食事に親の食事よりも美味しい物を与え、小銭をやって好き放題に買い食いさせる…。そういったことは「曲愛」にあたり、後々の子どものためにならないといいます。

子どもを養いながら人の道を教えない、また教えてはいても厳しくしないのは、愛情をはき違えており、子どもを愛していることにはならない。“本当の愛”とは、ときに厳しさを持って、人としての正しい道を教えることなのだ、と説いています。

モノがあふれる現代、常に物質的な充足を与えて子どもを喜ばせることが、子どものためになるとは限らないのかも…と深く考えさせられます。

幼少期に染み込んだ「悪い性質」はなかなか直せない

また、こうも書かれています。

「幼少より染み込むの気随、争(いか)でか容易に直るべけんや。譬えば、初め墨を以って之を染め、今更急に白くせんと欲するが如く、譬えば、栽樹を初め左へ曲げ置き、歳月を歴て右へ曲げんとするが如し、愚かなる事なり。」

【訳】
小さい頃から体に染み込んだ気随(自分の思いのままに振る舞うこと)は、どうして簡単に直すことができよう。それは例えるなら、初めに墨で染めたものを、急に白くしようとするようなもの、左へ曲げておいた植木を、何年も経った後で右に曲げようとするようなもので、愚かなことだ。

ある小学校の先生もおっしゃっていました。
「愛情に飢えた子は愛情を注ぐことでフォローできる。しかし、甘やかされて育った子は後々のリカバリがきかない。」

現代の子育てでは、「子どもの好きなことに関しては思いきり、自由にやらせた方がよい」と言われます。子どもの能力を伸ばす“良いわがまま”と、子どもをダメ人間にする“悪いわがまま”の適切な線引き、ぶれない判断軸がポイントなのでしょう。

大人としては、子どもの明らかな“悪いわがまま”に接したとき、放置せず、「なぜいけないのか?」という理由を根気よく伝え続ける姿勢が最も大事なのかもしれません。

まずは親が正しく生き、誠実に向き合うこと

最後に、こんな“ごもっとも”な心得も。

「子を育て教ゆるには、親の身持ち正しくするこそ専一なれ。似我蜂(じがばち)は外の虫を取り来たりて、『我に似よ、我に似よ』というてこれを育つるに、親の形に違わず、必ずはちになるなり。心なき虫すら斯くの如し。況(まして)や人の子をや。
親正しきときは、自ずから正しきに似る事易かるべし。
心に誠に之を求めば、中(あた)らずと雖も遠からず。」

【訳】
子どもを育て教えるには、親の品行を正しくすることが何よりだ。ジガバチ※(ハチの一種)が他の虫を取ってきて、「我に似よ、我に似よ」といって育てると、必ず親のような蜂になる。心のない虫ですらそうなのだ。ましてや、人の子がそうならないことがあろうか。
親が正しければ、子どもも自然と親の正しいところに似てくる。
誠の心で求めれば、たとえ的に命中しないとしても、見当違いにはならない。

つまり、「親が正しく生きて誠実に向き合えば、子は悪いようには育たぬ」ということでしょうか。

先人からのアドバイス、しかと心に受け止めたいですね。

※注:ジガバチ の名の由来
ジガバチの名は、その羽音に由来し、虫をつかまえて穴に埋め、似我似我(じがじが、我に似よ)と言っているとの伝承に基づく。じがじがと唱えたあと、埋めた虫が後日ハチの姿になって出てきたように見えたためである。(出典:Wikipedia)

<参考>
『江戸の子育て十カ条 善悪は四歳から教えなさい』小泉吉永/柏書房