楽天・藤田が明かす、グラブに家族の名を入れる意外な理由
22日放送、フジテレビ「すぽると!」では、東北楽天ゴールデンイーグルスを日本一に導いた守備の要、藤田一也のインタビューを放送した。2012年、横浜ベイスターズからトレードで東北楽天入りした藤田は、その守備力の高さでチームに貢献、同番組の解説を務める仁志敏久氏からは(番組内で)「日本で一番守備がうまい」と言われるまでになった。
「トレードで楽天に来させて頂いてすぐ監督が使ってくれたので、その監督を胴上げしたかった」と話した藤田は、「プロに入れたのも、横浜ベイスターズに獲って頂いたのも守備で獲って頂いたと思っていたので守備がアピールポイント」と語る。
その守備について、普段の練習では「最後5球くらいは一年にあるかないかみたいなファインプレーをやっとくというのはやっています」、「練習の中でやってるプレーが全て」といい、実際の守備でも「バッターの打球方向、ピッチャーの配球とか球筋とか、あとはキャッチャーの配球も前もって読みながら“こっちに来るんじゃないか”って予測しながら守備位置変えたり、変えなくても“こっちに来るんじゃないか”っていうのは考えながら守っています」と話した。
また、捕球から送球がとにかく速い藤田の守備は、「基本は(指の)2本(小指&薬指)か3本(小指〜中指)。これはゴロの場合なんですけど、グラブのこっち側(小指〜中指側)で捕っている。ゲッツーとかは(すぐ送球できるよう)あまり握らないようにしていますね。(グラブに)当てて捕るイメージでやってます」と細かく技術を説明。グローブの内側には、薬指を固定するために皮のバンドが付けられており、「しっかり固定していると使いやすい。ぶれないように。仁志さんの(現役時代にやっていたことを)入れさせて貰いました」と明かした。
その他にも、グラブの内側(人差し指の付近)には妻や子供、一期一会という座右の銘を刺繍している藤田。その理由を「楽天に移籍してからこのグローブを使わせて貰っているんですけど、家族も9年間横浜にいたんですけど、慣れたところから仙台という慣れないところに家族で来たので家族と一緒に戦いたないっていうのもあって入れるようにしているんですけど」と話すも、次の瞬間には「ここに刺繍を入れておくと(グラブの)芯がしっかりするので」と告白。家族愛溢れる美談に水を差したと思ったのか、すぐさま「スイマセン」と苦笑い。
「いらんこと言っちゃいましたね。でも、今まで結構隠してきたんです。恥ずかしいじゃないですか。これはノリさん(中村紀洋)も入れてる。聞いたんです、“さすがですね、家族愛ですね”って言ったら、ノリさんは“これ入れたほうが芯がしっかりするから”って言われて僕も真似したんですけど、石井琢朗さんの(グラブ)カタチから、仁志さんも入って、ノリさんも入って」と話す、横浜時代の先輩たちからグラブに関する工夫をしっかりと吸収してきた藤田であった。
「トレードで楽天に来させて頂いてすぐ監督が使ってくれたので、その監督を胴上げしたかった」と話した藤田は、「プロに入れたのも、横浜ベイスターズに獲って頂いたのも守備で獲って頂いたと思っていたので守備がアピールポイント」と語る。
また、捕球から送球がとにかく速い藤田の守備は、「基本は(指の)2本(小指&薬指)か3本(小指〜中指)。これはゴロの場合なんですけど、グラブのこっち側(小指〜中指側)で捕っている。ゲッツーとかは(すぐ送球できるよう)あまり握らないようにしていますね。(グラブに)当てて捕るイメージでやってます」と細かく技術を説明。グローブの内側には、薬指を固定するために皮のバンドが付けられており、「しっかり固定していると使いやすい。ぶれないように。仁志さんの(現役時代にやっていたことを)入れさせて貰いました」と明かした。
その他にも、グラブの内側(人差し指の付近)には妻や子供、一期一会という座右の銘を刺繍している藤田。その理由を「楽天に移籍してからこのグローブを使わせて貰っているんですけど、家族も9年間横浜にいたんですけど、慣れたところから仙台という慣れないところに家族で来たので家族と一緒に戦いたないっていうのもあって入れるようにしているんですけど」と話すも、次の瞬間には「ここに刺繍を入れておくと(グラブの)芯がしっかりするので」と告白。家族愛溢れる美談に水を差したと思ったのか、すぐさま「スイマセン」と苦笑い。
「いらんこと言っちゃいましたね。でも、今まで結構隠してきたんです。恥ずかしいじゃないですか。これはノリさん(中村紀洋)も入れてる。聞いたんです、“さすがですね、家族愛ですね”って言ったら、ノリさんは“これ入れたほうが芯がしっかりするから”って言われて僕も真似したんですけど、石井琢朗さんの(グラブ)カタチから、仁志さんも入って、ノリさんも入って」と話す、横浜時代の先輩たちからグラブに関する工夫をしっかりと吸収してきた藤田であった。