「決めきる」。最近、耳にする頻度がきわめて高い言い回しだ。惜しいシュートが外れると「決めきることができませんでした」と、アナウンサーは普通に言う。だが僕は、これまで原稿の中に使った記憶はない。喋った記憶もない。使おうとしたこともばければ、喋ろうとしたことも過去にない。これは間違いなく最近のはやり言葉だ。少なくともサッカー界、スポーツ界の中では「流行語大賞」の上位にはランクされるべき言葉だろう。
 
とはいえ、これからも使いたいとは思わない。やり抜く、やり遂げるという意味がある「やりきる」は分かる。「勝ちきる」も使いたい言い回しではないけれど、ギリギリセーフだ。しかし「決めきる」には抵抗がある。「決めきることができませんでした」はまだしも「決めきりました」は、やっぱり変。「決め」と「きる」が重なるのはくどい。「決めました」で十分だ。
 
「決めきる」をこれからも、ポピュラーなサッカー用語として耳にしていかなければならないと思うと、不快な気持ちになる。「決めきる力」が、新書にもってこいのタイトルのような気がして怖い。どうでもいい話かもしれないが、少なくとも僕は「決めきる」を耳にしてしまった日は寝付きが悪い。
 
日本語的に正しいかどうか。僕はライターであるくせに、そちらの方面には明るくないので、正確なことは言えないが、原稿の中であまり見かけないことも確か。書き言葉より喋り言葉としての方が、使用頻度は高いようだ。
 
決めるか、外すか。ゴール前の攻防は、いわばサッカーのハイライトシーン。そこのところをいかにドラマチックに伝えるか。少し前までよく使われた言葉は「決定力」。「決定力不足」は、日本の問題点と言われたが、積極的に使いたくなる訴求力の高い言葉であったことは確かだ。
 
しかし、さすがに最近少々、言い疲れた感がある。飽きてきたかなーと思うタイミングで「決めきる」があらわれた。流行る理由に必然はあるのかもしれない。だが、いかんせん耳障りは悪い。「見られる」を「見れる」と「ら」抜きで言ったりする「ら」抜き言葉に近いものを感じる。それをうるさく言う人もいれば、言わない人もいるわけだが、世の中的には、間違いではない使い方で通っているらしい。
 
ある時、テレビに出演していた国語の大家は、日本語は変化していくものだと語っていた。そうした考え方に従うと、「決めきる」についてとやかく言っている自分が、頑固な古いタイプの人間に思えてくる。寝付きはますます悪くなる。
 
そうした中にあって、タイムリーな存在になったのが、アジア大会で優勝に貢献した永井謙佑。「決めきる」ことができる選手として映る。少なくとも、アジア大会のレベルにおいては。岡崎よりも、森本よりも良いんじゃないか。淡い期待を抱かせる選手だ。
 
センターFWではあるが、多機能性もありそうだ。ウイングをやらせても、活躍しそうな選手である。かねてからウイング兼ストライカーの必要性を述べている僕にとっては、まさに歓迎すべき選手だと言える。しかし、2014年ブラジルW杯の日本代表のスタメン当確とまでは言えない。そう言うと、日本のマックス値が見えてしまうようで嫌なのだ。
 
もっと伸びて欲しい選手。伸びなければいけない選手。そうした認識でいたところ、先日、その名古屋グランパス入りが発表された。報道によれば、将来、海外でプレイする意志も持ち合わせているようだが、その将来とはいったいいつのことを指すのだろうか。彼は高卒ではなく大卒だ。2、3年後だとすれば、遅いと言わざるを得ない。選択肢はグッと狭まる。21歳のいまでさえギリギリ。いましかないタイミングであることは、欧州市場の現実をみれば明らかだ。
 
永井がどこに入るか? 争奪戦の状態にあることは伝えられていた。名古屋が優勢であることも報道されていた。しかし、Jリーグのクラブに入ることに疑問を呈する声は聞いた試しがない。日本期待の選手が、ありきたりのルートを歩むことになったことは、まさに拍子抜けだ。少なくとも諸手を挙げて歓迎すべき話ではないはず。ガッカリする声があっても良いはずだ。期待の若手と言いながら、本当は期待していないんじゃないのかと勘ぐりたくなる。少しばかり嘘っぽさを覚えるのは僕だけではないはず。
 
「決めきる」も同様だ。心のこもった熱い言葉には聞こえない。腹の底からわき出る切実な思いには聞こえない。ビシッと行こうぜ! 僕は、相変わらずそう言いたくてしかたがない。