この映画の魅力を最大に味わうためには、まず何はともあれ3D上映での鑑賞が必須。割高の料金を払う価値は十分あります。さらに可能ならIMAX-3Dだとか、Dolby3Dだとか、関東近郊ならスクリーン面積の大きい成田HUMAXシネマズがいいとか、いろいろあるけど、ま、それは各々のこだわりで。
3D映画は字幕を気にしないで済むように吹き替え版がいいというひともいるけど、本作に関してはワタシは字幕版をお勧めします。ゆらゆら動き続ける画面に対して、常にスクリーンの下方に字幕が絶対の水平を維持して存在すると、余計にその差異で酔いが深まるんですよ。……って、酔うのかよ! でも、酔わない酒なんて飲んだってつまらないでしょ。

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宇宙空間には、人間の呼吸に必要な酸素がない。そもそも空気自体がない。空気がないのだから気圧もない。音も伝わらない。太陽が地球の裏側へ隠れてしまえば、一切の光もない。

そのかわり、大量のスペースデブリがある。

スペースデブリとは、地球の衛星軌道上を漂う宇宙ゴミのことだ。1957年にソビエト連邦がスプートニク1号を打ち上げて以来、人類はおよそ5400機もの人工衛星を宇宙に送り出してきた。そのうち現在でも運用されている衛星は2000機ほどで、耐用年数を過ぎたり故障などで使用に耐えなくなった3400機は、ゴミとなって軌道上を漂っている。2007年に中国が不要となった気象衛星をミサイルで破壊し、無数の破片を拡散させてスペースデブリ問題を一層深刻化させたのは記憶に新しい。

アルフォンソ・キュアロン監督の新作『ゼロ・グラビティ』は、そんなスペースデブリが事件を引き起こすところからはじまる。

ライアン・ストーン博士(サンドラ・ブロック)とマット・コワルスキー宇宙飛行士(ジョージ・クルーニー)は、地球の上空60万メートルに浮かぶISS(国際宇宙ステーション)にスペースシャトルを停泊させ、船外活動に従事していた。故障したデータ通信システムの原因を探るためだ。

あと少しで作業が終了するというそのとき、ヒューストンから「大至急作業を終えて地球へ帰還しろ」との通信が入る。他国が破壊した衛星の破片が別の衛星に衝突して新たな破片を生み、大量のデブリ群となってライアン博士らのいる位置へ向かっているというのだ。

デブリ群は連鎖的にいくつもの衛星を破壊しながら突き進む。そのせいで通信障害が起こり、ヒューストンからの連絡も途絶えてしまう。

やがて無数の破片がシャトルの上に降り注ぐ。一緒に船外作業をしていたクルーの一人は、飛来した破片の直撃を頭部に受けて即死した。ライアンは回転する作業アームに振り飛ばされ、真っ暗な宇宙空間に放り出されてしまう。はぐれてしまったマットとは、かろうじて無線で通話ができるだけだ。

ライアンが自力でシャトルに戻る手段はない。現在位置すらわからない。宇宙服に残された酸素は10パーセントを切っている。たとえ戻れても、シャトルはデブリ群の直撃を受けて使い物にならない。はたして彼女はライアンと再会できるのか、無事に地球へ帰れるのか──。

監督の前作『トゥモロー・ワールド』は、2027年の未来を舞台にして人類の絶望と希望を描いたSF映画の傑作だった。本作も、宇宙が舞台ということでSF映画かと思われるかもしれないが、どちらかといえばパニック映画に分類されるものだ。むしろ、最新の技術を駆使して作り上げられた一級品のディザスター・ムービー(災害映画)だ。

予告編、見ましたか。宇宙服を着たサンドラ・ブロックがぐるんぐるん回ってる、例のあれ。

サンドラも目が回るだろうが、見てるこっちも目が回る。こんな映像、どうやって撮ったのか。「ホントに宇宙まで行って撮りました!」そう言われても信じるね。映画の撮影技術、CGI技術の進歩には本当におどろかされる。『ジュラシックパーク』の恐竜にびっくりしていたのが遠い昔のようだ。

すでにあちこちで語られていることだけれど、この作品では死と再生のイメージが随所に描かれている。監督曰く、本作のテーマは「逆境に遭うということと、そしてそれを克服して、生まれ変わるということ」だそうで、それがすなわち死と再生のイメージに結びつく。とくに興味深いのは、主人公をジョージ・クルーニー(男性)ではなく、サンドラ・ブロック(女性)に設定したことだ。そう、この映画は女性が主人公でなくてはならなかったのだ。

サンドラ演じるライアン博士は、過去に幼い我が子を失った母親という設定で、この時点ですでに誕生と死のイメージを身にまとっている。そんな彼女が絶望的の淵に立たされた際、どうやって死への誘惑を振り切って、新しい生を獲得しようとするのか。本作はその過程を単なるセリフや感情表現を越えた映像の驚きで見せてくれる!

実は『2001年宇宙の旅』でも同じテーマを描いているのだけど、『ゼロ・グラビティ』は主人公を女性にしたことで、それをよりエレガントな形で提示することに成功したと言っていい。とある場面で、彼女が胎児のように丸くなって浮かぶ場面は、映画史に残るイコンとなるだろう。

それにしても……。この映画、原題は『GRAVITY』なのね。ゼログラビティ(無重力)じゃなくて、単にグラビティ(重力)なの。この違いはとても大きい。なぜなら、これは無重力の恐怖だけを描いた映画ではなく、重力の有り難みこそを描いた作品だからだ。

制作者たちがタイトルに込めた衝撃をダメな邦題が減圧してしまうのは、サム・ライミの『Drag Me to Hell』に日本の配給会社が『スペル』なんて邦題をつけたのと同じぐらいに罪深い。これから『ゼロ・グラビティ』を見に行く人は、「ゼロ」を文字通り存在しないものとして見に行くといい。(とみさわ昭仁)