「『食道楽』の人 村井弦斎」黒岩比佐子/岩波書店

写真拡大

NHK朝の連続テレビ小説「ごちそうさん」(森下佳子脚本)第9週(2013年11月25日〜)で、ヒロインめ以子(杏)が家を追い出されるまさにそのとき、女学校時代の級友で小説好きの桜子(前田亜季)と、め以子の実家の西洋料理店・開明軒に出入りしていた小説家(志望者?)室井幸斎(山中崇)が、駆け落ちして東京からやってきました。

室井幸斎は第1週から登場、ドラマ公式サイトによれば
〈「食」をテーマにした小説を書くため、という口実で開明軒に入り浸り、まかないを恵んでもらっている〉
そうです。第1週は明治末、駆け落ちした第9週は関東大震災直前ですから、開明軒は彼に10年以上にわたってまかないを提供し続けてきたのでしょうか。
東京篇の終盤では、高熱を出した西門悠太郎(東出昌大)を下宿にかくまい、看病していましたね。

室井幸斎? ひょっとして明治・大正期の小説家でジャーナリストの村井弦斎から作った名前? ドラマの主題も「食」だし、もしや……、と思っていたら案の定、森下佳子さんとの対談でチーフプロデューサー岡本幸江さんが、
〈『食道樂』の作者・村井弦斎さんにオマージュをささげて誕生した〉
と述べています。

といってもいまのところ名前にあやかっただけで、「モデル」というわけはないようです。村井弦斎の生没年は1864-1927ですから、関東大震災のころには還暦直前、ということは、ドラマの室井幸斎が明治末に青年期だったとすると、それよりは25歳から30歳くらいは上の世代ということになりましょうか。

村井弦斎は明治の大衆的ベストセラー作家です。尾崎紅葉や夏目漱石や田山花袋を中心に据えた明治文学史のなかでは、気の毒なことに、あまり大きなスペースを割かれることはありません。
というより村井弦斎は、小説という、要はただの「おもしろい作り話」を徐々に「芸術」へと格上げしつつあった当時の文壇からもすでに、「売れているイロモノ」扱いだったようです。
それはなぜかというと、1901年に始まる村井弦斎の代表的ヒット作『百道楽』シリーズが、いまでいう「ライフハックもの」だったからです。
ちょうど、あれだけ売れた岩崎夏海の『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』(ダイヤモンド社)が、直木賞や吉川英治文学新人賞の候補にも挙がらず、本屋大賞の最終ノミネートにも出てこなかったのに似ています。

『百道楽』シリーズには、『釣道楽』『酒道楽』『女道楽』『食道楽』『続食道楽』があり、なかでも1903年に新聞連載された『食道楽』はたいへんな大ヒットでした。
 黒岩比佐子さんのサントリー学芸賞受賞作『『食道楽』の人 村井弦斎』(岩波書店。とてもいい本なので、ドラマのヒットに乗って岩波現代文庫にしてほしい)によると、ほんとうはもっと続けたかったらしく、メモには29種類のタイトル案が残されているそうです。

そのなかには、猟銃道楽・芝居道楽・盆栽道楽・囲碁道楽・着道楽・読書道楽・旅行道楽・写真道楽・猫道楽のような、なんとなく内容が髣髴とされるものから、研究道楽・小言道楽のような、ちょっとニッチな感じのものまであったそうで、じっさい第1作『釣道楽』の新聞予告では、ほんとうに100種類書くと予告していたらしい。
完成していたら、ライフハック小説界の『グイン・サーガ』になっていたかも。

多趣味な人だなーと思うわけですが、でも『百道楽』シリーズは題名に反して、
「その領域についてちゃんとした知識を持って、なにごともほどほどにね! でないと、ハマりすぎて身を持ち崩しちゃうよ」
という、どっちかと言うと
「本当は怖い道楽の世界」
と題したほうがいい、教訓小説だったようです。

私は岩波文庫になった『酒道楽』と『食道楽』を読みました。
『酒道楽』は無類の酒好きである百川降〔ももかわ・くだる〕と酒山登〔さかやま・のぼる〕が、酒のせいで失敗しては「もー酒はこりごりだ!」と禁酒を誓い、でもまたうかうかと飲んでは失敗を繰り返す、というもので、窮地に陥ったところ最後にはなんとか立ち直る、というから、『酒道楽』なんて題名に惹かれて読んでみたら禁酒のススメだったという詐欺みたいな、露骨な教訓のある明朗滑稽小説です。そこは明治の新聞小説ですから、エキレビ!で杉江松恋さんが評した吾妻ひでおの『アル中病棟』みたいな展開には間違っても絶対になりません。
酒山登なんて名前からも明らかなように、「名は体をあらわす」式のキャラクター命名が露骨で、ふたりのダメ主人公を啓蒙する説教臭い堅物の発明家が山住清〔やまずみ・きよし〕、洋行する友人が外海渡〔そとうみ・わたる〕です。

でも当時評判になっただけに、読んでみたらこれがなかなか楽しい。黒岩さんによれば『女道楽』は「廃妾小説」だったそうです。
ちょっと金持ってたら妾を囲うというのは森鴎外の『雁』なんかでもおなじみですし、黒岩涙香の『弊風一斑 蓄妾の実例』が新聞連載されたのは『百道楽』が始まる3年前だし、ジャーナリスト宮武外骨は政治家のスキャンダルとしてこの「妾問題」を始終取りあげていました。村井弦斎もジャーナリストとして、この廃妾キャンペーンの流れに棹さしたのでしょう。

最大のヒット作『食道楽』は、ストーリー面で言うと、ヒロインお登和が、食文化に詳しい文士の兄の影響で、料理研究を目指す、というもの。
でもこのストーリーはまあ口実みたいなもので、作中には当時最先端の衛生学・栄養学・生理学の知識をもとに、いまさら人に訊けない米や味噌の基本FAQから、肉・魚・野菜・果物の知識、各種ハイカラな洋食やスイーツの作りかた、虫除けや貯蔵法や悪臭対策、調理道具の使用法やメンテナンス、さらには台所仕事で汚れたときの洗濯・染み抜きのtipsまで、ものすごい量と幅の情報が詰めこまれていました。
またストーリーの時間は正月から始まる1年のあいだ、新聞読者の季節と同じタイミングで、 季節季節の旬の食材に合わせたレシピが挟まれるあたり、ちょっとしたキッチン歳時記にもなっています。ストーリーを口実にお役立ち情報を盛りこむという『もしドラ』っぷりが素晴らしい。
牛の脳味噌の調理法にまで触れてるのだから、もう柴田書店あたりのプロ仕様の料理本の域に踏み込んでる。め以子の父で開明軒のシェフ卯野大五(原田泰造)はきっと読んでただろうな。

ドラマ『ごちそうさん』の見どころのひとつが、母イク(財前直見)や悠太郎、乾物屋の定吉(蟷螂襲)、師匠こと悠太郎の父・酉井捨蔵(近藤正臣)といった人たちをそのときそのときの「メンター」として、め以子が料理に工夫を凝らしてピンチを切り抜ける展開ですが、ストーリーに料理の知識がちりばめられる構成は、まさに『食道楽』ゆずりでしょう。
ちなみに、小説冒頭で正月の餅を18個食べて消化不良を起こすヒロインの婚約者の名前が大原満〔おおはら・みつる〕と、弦斎流ネーミングは健在だなー。

単行本化にさいして、附録として「日用食品分析表」「西洋食品価格表」「米料理100種」「パン料理50種」「病人の食物調理法」「戦地の食物衛生」をつけたのもすごい。グルメ小説じゃなくて「食育」小説なんですね。
なお、『食道楽』の実用部分だけをまとめて、裕福な家の〈妻君〉とお手伝いのミツというキャラクターの対話篇に仕立てた『台所重宝記』が1905年に出ています(娘で登山家の村井米子による現代語への編訳は平凡社ライブラリー)。約1/3の量になっているし、テーマ別に章立てしてあるので、
「えーと、銅鍋の手入れはどうするんだっけ?」
「上等の葛の見分けかたは?」
と知りたくなったときに、目次ですぐにみつかる。ネットのない時代、これは便利だっただろうなー。こうなるとほとんど学習漫画です。

特定作家の作品からレシピ本を作るのは岡本一南『村上レシピ』(ゴマ文庫)とか佐藤隆介『池波正太郎・鬼平料理帳』(文春文庫)、神野薫『森茉莉 贅沢貧乏暮らし』(阪急コミュニケーションズ)などいろいろありますが、作者自身がそれをやってしまっているのだから、いちばん近いのはうえやまとちの『クッキングパパのレシピ366日』(講談社+α文庫)か?

村井弦斎は『食道楽』の大ヒットのあと、平塚に移り住み、莫大な印税をもとに、広い敷地で多種多様な野菜や果物を栽培し、養鶏もして、幅広い食材を自給したというから、玉村豊男さんみたいな感じ?
こういう作家もいたんですね。そりゃNHKのプロデューサーもトリビュートするわ。というか、村井の苗字は東京篇に出てきた悠太郎の幼馴染で「同志」の医学生・村井亜貴子(加藤あい)の名前に受け継がれてますし、室井幸斎が美人の亜貴子に、ムライとムロイ、ボクら他人とは思えませんねー、なんて意味のことを言ってちょっかいかける場面もありました。製作者サイドには『食道楽』にかなりの思い入れがあるご様子です。

ドラマのほうでは室井幸斎は11月28日・29日の回で「焼氷」の唄を作詞したという展開もありました。同じ週に出てきた、〈いのち短し恋せよ乙女〉の歌い出しで知られる大正期のヒット曲「ゴンドラの唄」(吉井勇作詞)に対抗したものでしょうか。もう少し室井幸斎に注目していきましょう。
『食道楽』岩波文庫版上巻の解説で、黒岩比佐子さんは内田魯庵の「よく売れた小説と文士の収入及び生活」(1911)という文章から、つぎのような一節を引用しています。
〈日本で能〔よ〕く売れた本と言へば蘆花の『不如帰〔ほととぎす〕』に弦斎の『食道楽』〉

たしかに、村井弦斎の実用啓蒙小説『食道楽』が明治の『もしドラ』なら、徳冨蘆花の「泣ける」小説『不如帰』は明治の『セカチュー』だよな……とか言ってたらNHK大河ドラマ『八重の桜』では太賀が徳富健次郎(徳冨蘆花)を演じているというではありませんか。どうしたんだ今年のNHKドラマは……。
(千野帽子)