カタールのドーハで行われた先のアジアカップ。中東湾岸諸国は地元カタールをはじめ、すべてのチームがベスト4を前に舞台から消えた。だが、大会はその割には盛り上がっていた。

もしこの大会が日本で開催されていたらどうだっただろうか。日本がベスト8で敗退したら大会は以降、盛り上がっただろうか。日本のファンは外国同士の試合に、興味を示すことができるだろうか。

少なくとも地上波テレビが、生中継することはないだろう。「世界バレー」を見ればうなずける。他国同士の試合は、決勝でさえ中継なしだろう。

ウズベキスタン対豪州、韓国対イラン。このカードで視聴率は何パーセント取れるだろうか。日本では、たいがいそうした方向で話が進む。5%行けば十分。だったらやめましょう――となるのだが、準決勝以降もすべて完全生放送でカバーしたカタールのテレビ局に、数字的なノルマはない様子だった。経済効果とか、そういったみみっちい話をする人がいなさそうなところに好感が持てた。2022年W杯招致に成功した理由かもしれない。お金にうるさくない。つまりお金があるから開催する。理屈はある意味で純粋。分かりやすい。

感覚的な話はともかく、現地で実際に驚いたのはテレビ報道だ。とにかく討論好きなのがよくわかる。試合について、3、4名の評論家が、平気で3時間も4時間も話している。その模様を延々垂れ流すわけだ。

サッカーは議論するスポーツ。サッカーの本質は議論にあり。サッカーの本質は議論することで浮き彫りになる。そう信じて止まない僕には、まさにサッカー報道のあるべき姿だと映った。だが、素晴らしいと感心しきりだったのは最初の数日。連日、それを繰り返えされると、よくもそんなに話すことがあるもんだと、逆に呆れたくなった。

地元カタールの試合だけなら分かるが、他国同士の試合でもこの調子を崩さなかった。カタールが日本に準々決勝で敗れても、番組はしっかり存在している。内容にも変化はない。相変わらず3時間も4時間も真面目に議論している。

驚くのはそれだけではない。カタール以外の国のテレビ局も、討論形式の番組を組んでいたのだ。大会期間中、僕が滞在していたアパートメントのテレビは、およそ1000局をカバーしていて、カタール周辺の湾岸イスラム諸国のテレビ局も簡単に視聴することができたのだが、どこもかしこも白装束に身を包んだ、決して爽やかではないオヤジ系のコメンテーターが、連日連夜、試合について熱く語っていた。

不思議なのは、こんなに語り合っているというのに、サッカーが強くならないことだ。報道は日本とは比較にならないほどサッカーの本質を突いているのに、肝心のプレイはサッパリ振るわない。中東勢はベスト8ですべて姿を消した。討論の中身が、よほどトンチンカンなのか。それについては言葉が分からないので、何とも言えないが、選手や監督によい意味での刺激を与えていないのだろう。

もっとも、討論がない国に戻ってくると、それはそれで懐かしく感じられる。日本は番組の改編期が迫っているらしく、スポーツニュースの新キャスターに誰々が起用されるとか、そうした話題を耳にする。若かったり、美しかったりするものに、徐々に首はすげ替えられる嫌いがあるが、番組としてのサッカー偏差値、スポーツ偏差値はその分だけ下がる。若くて美しい人が張り切れば張り切るほど、スポーツに長年接してきた者は、シラッとしたムードに襲われる。

狙いは視聴率アップなのだろうけれど、それを喜ばない人が多くいることも事実。長くファンを続けている人ほど、その傾向は強い。こう言ってはなんだが、スポーツニュースのレベルは、時代とともに上がっていくわけではない。スポーツ好き、サッカー好きに向けた番組は生まれにくい。