「本当に僕の子供かな」愛する娘の成長や、妻との穏やかな老後を夢見ていたのに…《池袋暴走事故》が被害者遺族・松永拓也さんから奪った「もう1つの未来」〉から続く

「おとうさん死なないで」――。

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 松永拓也さんは、妻・真菜さんと娘・莉子ちゃんの成長を見守りながら、家族で沖縄に移住する未来を思い描いていた。しかし2019年4月19日、その夢は一瞬にして奪われる。

 最愛の妻と娘を失い、「なぜ自分だけが生き残ったのか」と絶望する松永さん。事故からわずか3日後、彼はアパートの屋上に立っていた。そこで聞こえた「不思議な声」、そして夢の中で交わされた「妻との不思議なやり取り」とは。

 長年、同事故の取材を続けてきたTBSテレビ守田哲氏の新刊『池袋高齢者暴走事故 遺族と加害者家族の2060日』(文藝春秋)よりお届けする。(全3回の2回目)


2019年4月19日、事故で妻子を失った松永拓也さん(写真:時事通信社)

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湧き上がる希死念慮

 事故直後、松永は一睡もできず、絶望と後悔が波のように押し寄せた。三日後の四月二二日の深夜、実家の仏間で、莉子ちゃんの亡骸を見つめていた。変な気を起こさぬよう、他の家族ができる限り見張っていたが、このときは独りだった。莉子ちゃんの手を触ると、生まれたときの温かな手とは違い、あまりに冷たかった。

 あれほど愛した娘の顔を見ぬまま、金輪際会えなくなるという現実。顔を一目でも見たいという思念。この二つが激しくせめぎ合った末に、白い布を少しだけめくった。激しく傷ついた額が見えた。これ以上見ると精神が崩壊すると直感し、元の状態に戻した。松永は決意を固めた。

 玄関でサンダルを履いて外に出た。アパートの階段を一段ずつ上がっていく。前を歩く妻子が振り返る姿を見たが、幻だと気づいた。階段の照明がむきだしのコンクリートに松永の影を落としていた。

 屋上の手前の踊り場に辿り着いた。踊り場は外に開放され、視界が大きく開けた。なだらかなU字型の手すりと、地上から一〇メートル以上ある高さは、松永に好都合だった。

 街の灯りと過去の思い出が渾然一体となり、視界が歪む。なぜ、自分だけが生き残ってしまったのか。不条理に足を絡めとられ、眼下の暗闇に飲み込まれそうになる。黒い空を見上げると、止めどなく涙が溢れる。

――どうすればいいんだよ。

手すりを掴んだときに聞こえた「ある声」

 松永は深淵をのぞき続け、自問自答を繰り返した。気づけば一時間以上が過ぎ、日付が変わっていた。漆黒の闇が全身を浸し、人生に終止符を打とうと手すりを摑んだ。

 そのとき、声が聞こえた。「おとうさん死なないで」。松永はへたり込んで、頭を垂れた。――今日は帰ろう。

 階段を下りながら、朦朧とした頭に激しい虚無感が湧き上がる。再び仏間に戻り、亡骸に向き合った。死ななかったからといって、何を糧に生きていけばいいのか。気づくと、カーテンから朝の光が部屋に差し込んでいた。考えに考えた末に、こう決心した。

――こんな思いをする被害者と、こんな思いをする遺族が出てはいけない。

 事故から一週間後、初めてまともに寝床についた。眠れたからこそ見たくない夢を見た。

 松永が帰宅すると真菜さんがいた。

――事故は夢だったんだ。

「事故は夢じゃないよ」

 そう思い、嬉しさのあまり真菜さんに抱きついた。真菜さんは驚いた表情で「どうしてここにいるの?」と言い、こう続けた。

「事故は夢じゃないよ。独りにしてしまってごめんなさい、あなたに出会えて幸せだった」「莉子は?」と松永が尋ねると、真菜さんは「莉子は『この世に顔を置いて行きたくない』と泣くので、困っている」と答えた。

 松永はあまりの衝撃で声を上げながら目を覚ました。そして、七年経った今もこの夢のやりとりを一言一句覚えている。

 事故から一か月後に仕事に復帰した。まともな心情ではいられなかったが、署名活動などで気を紛らわした。遺族はいくら平静であろうとしても、日常の些細な出来事によって心を翻弄される。

 特に、死亡届や児童手当、年金などの死に伴う役所的な手続きはつらい。しかし、真菜さんが生前から銀行などの書類を整理していたことから、松永は対応に困らずに済んだ。

 ただ、当事者にならないとわからない経験もある。たとえば、松永の場合、妻子の死亡時刻について訂正連絡があった。死亡時刻は当初、病院での医師による死亡診断時点だったが、現場で被害に遭った時点に変更されたのだ。

 死亡時刻は戸籍関係の情報に関わるため、警視庁などが当事者に通告することはやむを得ないが、当事者にとっては、事故を想起するものとしていちいち過酷な経験となる。

 逆に、警視庁が松永の心情に配慮をした対応もあった。真菜さんの死亡に伴う運転免許取り消しの通知を松永に送らないようにする措置を行った。

マブダチの支え

 松永を支えたのは、結婚式でふざけた挨拶をした土屋ら五人前後の仲間たちだった。当時、土屋は事故のことが現実とは思えず、精神的衝撃が原因なのか記憶が薄い。自身が参列したのが通夜だったのか告別式だったのかも覚えていない。

 松永に連絡していいのかどうか深く葛藤し、電話もLINEもできなかった。ただ、憔悴しきった松永の姿が頭から離れなかった。

 とにかく何か行動しようと思い、四月下旬に花を手向けようと友達数人で現場を訪れて献花をした。その帰り道、何となく「拓也の家の前を通ってみるか」ということになった。すると、アパートの下で松永の父親とばったり会った。

 何と声をかけて良いのか戸惑ったが、父親が「ちょっと寄って行ってよ」と誘った。家におずおずと入ると、顔面蒼白の松永がいた。松永は「来てくれてありがとう」と小さな声を出した。

 土屋らは松永の肩を抱き寄せた。

「俺らにできること何もないけど、何かあったら言ってよ」

「また来てよ」

 それだけのやりとりだった。知らないうちにお互いが涙を流していた。

「みんなでできるだけ拓也の側にいよう」

 仲間は「みんなでできるだけ拓也の側にいよう」と話し合った。その後、二日か三日に一回の頻度で、ビールを買って松永の家に行った。土屋たちは「いつもの感じで話そう」と思いつつ、出来るだけ聞き役になろうと心がけた。ゴールデンウィーク前には、家の近くの食堂に集まり、「外に出られてよかったな」と語り合った。

 土屋たちは仕事も家庭もあったが、松永宅を訪問し続けた。彼らは多くを語らず、無心で松永の散歩に付き合った。事故現場に続く道に出くわすと、松永は率直に「ここは通りたくない」と言い、土屋たちも「じゃあやめようか」と受け止めた。そんな本音のやりとりができる仲間たちだった。

 松永は少しずつ笑顔を見せるようになった。徐々に訪れる回数は減っていったが、一〇月には豊島区の雑司ヶ谷鬼子母神のお祭り、御会式に行くまでになった。

「拓也、俺たちは…」

 今から振り返ると、土屋たちはグリーフケアにおける重要な役割を果たしていた。グリーフケアとは愛情の対象を喪失した際の悲嘆を軽減させる営みだ。土屋たちが何か特別なことをするわけではなく、「そうだよな、そうだよな」と、等身大の友人として付き合い続け、松永の言葉を傾聴したことは彼の支えとなり、大きな意味があった。

 土屋は結婚式の挨拶を、松永をからかった後、こんな言葉で締めていた。

「拓也、俺たちはずっと友人として常にサポートしていくから」

 四年後、その言葉を実行したのだった。

〈「これって放送に耐えられるんですか」亡き妻と娘の遺品に触れて嗚咽、同席したカメラマンまで涙…《池袋暴走事故》TBS記者が驚いた「すべてをさらけ出す」遺族・松永拓也さんの覚悟〉へ続く

(守田 哲)