「朝帰りして練習に出てこない」甲子園優勝投手に何があったのか…「もしかしたら病気と違うか」早稲田大学で期待のルーキーを襲った「異変」

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プロ野球史上最大のミステリー「KKドラフト」から41年、いま初めて明らかになる物語――。あのとき、球界に渦巻く虚々実々に翻弄されたのは桑田真澄と清原和博だけではなかった。脚光を浴びた2人の周縁で、誰が動き、誰の運命が書き換えられたのか。本当の主役は誰だったのか。 

連載『1985 英雄たちのドラフト』    

第21回「アーネスト・ベースボール」(前編)

「どうも入学した時点から少しおかしくて…」

学生スポーツ新聞の先駆け的存在として、1959年の創刊より「ワセスポ」の愛称で早大生に購読されてきた『早稲田スポーツ』は春になると例年「新入生歓迎号」を刊行する。運動部の情報が充実するのはスポーツ新聞である以上当然だが、ラグビーやレスリングといった老舗運動部を抑え野球部の情報に最も紙面が割かれる。

『早稲田スポーツ』(1985年4月21日号)は「飛翔=若い力‘85新人紹介」なる見出しで、すべての運動部の新入部員を紹介している。野球部は26人の新入部員の名前が出身校とともに載っており、写真付きで紹介されているのは、前年夏の甲子園優勝投手である取手二高の石田文樹と、同じく前年夏の甲子園出場校であり、春のセンバツではベスト4まで勝ち進んだ大船渡高校の外野手、今野一夫の2名である。

《今年のワセダのキャッチフレーズは「アーネスト・ベースボール(ひたむき野球)」投手を中心に守りを固め、1点、1点を確実に取っていく粘っこい野球だ》(『早稲田スポーツ』1985年4月1日号)とあるように甲子園優勝投手である石田の加入は、学生記者にとっても、低迷する早大野球部の救世主に映ったかもしれない。

しかし、その石田文樹は4月の新年度から本格的に始まる野球部の練習に毎日参加したわけではなかった。この年から新監督として早大野球部の指揮を執った飯田修の証言がある。

「素質的にはすばらしいものを持っていますから、私自身は石田に期待しているんですが……。ところが、どうも入学した時点から少しおかしくて、4月は来たり来なかったり。いや、来ない日のほうが多かったといっていいでしょう」(『週刊宝石』1985年10月25日号)

「もしかしたら病気と違うか」

石田の1学年上になる江上光治は当時をこう回想する。

「最初の野球部の練習で石田の球を見て『いい球投げるなあ、さすが甲子園の優勝投手は違う』って感心したものですが、4月に入ってから石田はほとんど練習に来てないんです。『あれ、石田は?』『今日も来てないな』って言ってて『もしかしたら病気と違うか』みたいに心配もしていたんです」

「あまりに練習に来ないので、ある夜、僕と同期の加藤(正樹)と2人で、石田の下宿に行ったんですよ。それで一緒に晩飯を食いながら『お前もいろいろあると思うけど、練習に来てくれへんか』『上京したばっかりで、慣れないこともあると思うけど、一緒に頑張ろうや』とか励ましたりしたんです」

「そしたら『はい、わかりました。すみません』と言って翌日は来るんですよ。でも、また来たり来なかったりで……。それで、また加藤と一緒に今度は昼に下宿を訪ねて『何か嫌なことでもあったん?』『いえ、それはないです』『だったら、一緒に頑張ろうや』とか言ってまた説得したり……。そういうことが2、3度ありましたね」

東京六大学野球の春季リーグが終わると、早大野球部は6月20日から7月19日まで長期の休みに入る。言うなれば一足早い「夏休み」で練習再開は7月20日となる。しかし、その練習再開日に石田文樹は西早稲田の安部球場に現れなかった。

姿を消す前日の石田の行動

「この前日、石田と一緒にいた」と言う人物がいる。取手二高時代のチームメイトで、元野球部主将の吉田剛である。何度も述べてきたように、取手二高卒業後、ドラフト2位で近鉄バファローズに入団した吉田は、7月19日に後楽園球場で行われたJrオールスターゲーム(現・フレッシュオールスターゲーム)のウエスタンリーグ代表メンバーに選ばれていた。吉田からこの日の話を聞いた。

──1985年7月19日にジュニアオールスターゲームが後楽園球場で行われました。近鉄のルーキーだった吉田さんはウエスタンリーグのメンバーに選ばれたわけですが、後楽園球場に取手二高野球部時代の仲間が観戦に訪れたそうですね。

「そうそう、7〜8人で来たんよ。東京の大学に進学した奴とか、地元に就職した奴もおったし」

──その中に石田文樹もいましたか。

「うん、石田もいた。東洋大に進学した中島(彰一)も来たし、何だかんだで10人くらい集まったんちゃうかな」

──それは吉田さんがチケットを用意したんですか。

「うーん、どうだったかな。古い話だからよう憶えてないけど、、そうだったかも」

──試合はイースタンが8対2で勝ちました。試合後、かつての取手二高野球部のメンバーと食事に行ってますね。

「行った行った。どのみち、翌日からオールスターゲームが始まるんで公式戦が5日くらい休みになるんよ。それでファームの選手も夏休みが貰えるんで。ついでに里帰りも出来るし」

──その食事の席に石田文樹もいましたか。

「いた。……全員いたと思う。何か用事があって先に帰った奴もいるとは思うけど」

──どこで食事をしましたか。都内?

「どうだったかな……。最初は都内かな。試合が終わってすぐだから空腹だし。その後、取手に移動したんじゃなかったかな」

──二軒目は取手に移動したんですね。常磐線で上野から40分、車だと1時間はかかりますがそう遠くはないです。二軒目も当然、盛り上がったでしょうね。

「だろうね……。半年ぶりだし。ファームにいたら東京に来る機会ないしね。みんなとワイワイやったのかも」

──宴は何時まで続いたんですか。

「朝までおったような気がする。夜通し騒いだんだろうね。どうせ実家に帰るだけだし、みんなも夏休みで」

──石田文樹も取手に移動して一緒だったのでしょうか。

「どうだったかな……」

──確認出来る記事などによると、どうやらそのようなのですが。

「だったら、そうなんじゃない?」

──石田文樹が早大野球部の練習を休みがちだったのは知っていましたか。

「うーん……。この時点では聞いてなかったかな。その日もそういった話はしてないと思う。俺も試合後だし、『プロってどんな感じ?』みたいな話はしたかも」

──とにかく、前年の夏の甲子園優勝メンバーと朝まで一緒にいたわけですね。

「それは確か。朝になってみんなとバイバイしたんじゃなかったかな」

吉田剛にとって前年の優勝メンバーと朝まで騒いだのは楽しい時間だったろうと想像がつく。それはメンバーにとっても同様で、石田文樹にとってもそうだったかもしれない。

ただし、石田には問題があった。すでに触れたように翌7月20日が早大野球部の練習再開日だったことだ。『週刊宝石』1985年10月25日号には「関係者」のコメントとしてこうある。

「石田は前夜飲みすぎて、翌日の集合時間に間に合わなくなってしまったんですよ。取手二高の仲間で近鉄に入団した吉田(剛)がJ・オールスターに出たというので、みんなで集まって飲んだらしいんですね」(同)

これ以降、石田文樹は忽然と姿を消すのである。

【後編を読む】「決していじめやシゴキが原因ではないです」早稲田大学野球部から突如失踪した「甲子園優勝投手」…大学の先輩の証言「本人も亡くなってるんで、どうしようもないんだけど…」

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