「恐怖体験」を直接思い出さずに恐怖反応を和らげるには…PTSD研究につながる脳科学の新たな可能性

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意識と無意識、記憶や学習、不安や怒り……。こうした日々の経験は、なぜ、どのように生じるのでしょうか? すべて脳の中で起きていることですが、研究によって、このような脳のしくみやはたらきが、少しずつ明らかになってきています。

最先端で活躍する脳研究者たちが、研究の最新成果から未来までを語った『世界一面白い脳の講義 脳の謎を科学で解き明かす』(日本神経科学学会:編)が、講談社ブルーバックスから刊行されました。

本書は、気鋭の脳研究者たちによる一般向けの講演イベント「脳科学の達人」10周年を記念して作られた一冊です。

研究の熱気を届ける本書の名講義から、興味深いトピックを厳選して紹介していきましょう。

今回は、PTSD(心的外傷後ストレス症)の新たな治療法の開発に向けた研究について取り上げます。患者への負担を抑えながら恐怖を和らげる新たなアプローチの可能性が、脳科学の研究から見えてきています。最新の知見を紹介します。

*本記事は、『世界一面白い脳の講義 脳の謎を科学で解き明かす』(ブルーバックス)を再構成・再編集したものです。

恐怖記憶の緩和が難しい理由

PTSDや様々な恐怖症の治療法のひとつとして、「暴露療法」が知られています。PTSDの患者は、トラウマの記憶が何度もよみがえり、そのたびに強い不安や恐怖に襲われる場合もあります。

暴露療法とは、恐怖の原因となっている物や状況に少しずつ意図的に直面する(暴露させる)ことで、恐怖を弱めていく治療法です。

たとえば、車にひかれて大けがを負い、車を見るたびに恐怖心を抱くようになった人がいた場合、セラピストが車の写真を見せたり、車のことを想像してもらったりするなどして、少しずつ恐怖の対象である車に対する恐怖が弱まるようにしていきます。

ただし、暴露療法は患者にとって大きなストレスがかかる治療法です。そのため、治療を中断する人も少なくありません。

私たちは、本人が自覚的に恐怖を感じることなく、脳の中で同様の活動パターンを再現できれば、恐怖反応を弱められるのではないかと考えました。

そこで、脳の中に「恐怖の対象を見たときに脳内で生じる神経活動のパターン」を別の方法で生じさせる方法の開発を株式会社国際電気通信基礎技術研究所 (ATR)を拠点として進めました。

同じ脳活動を引き起こせれば恐怖はやわらぐのか?

私たちの研究グループでは、「ニューロフィードバック」を利用した、新しいPTSDの治療法の開発を進めています。

一般的なニューロフィードバックでは、脳内の活動量の変化を可視化できる「fMRI(functional Magnetic Resonance Imaging/機能的磁気共鳴画像法)」などでモニタリングした脳の活動状況を被験者にフィードバックしながら、特定の脳の活動ができるように訓練などを行います。

私たちは、さらにデコーディングという脳活動パターンを解読する技術を導入したデコーディッド・ニューロフィードバックを用いました。この方法を用いれば、フィードバックを通じて、特定の対象を見ているときに生じる脳活動パターンを、被験者本人の意識的な知覚をともなわずに誘導することができます。

そのため、恐怖の対象に暴露したときと同じ脳活動パターンを被験者の脳内に再現できるようにすれば、暴露による負担を大きく減らしつつ、恐怖を緩和する効果が得られる可能性があると考えました。

まず私たちは、「緑色の丸」と「赤色の丸」のように、単純な図形を使った実験を始めました。

被験者に緑色の丸を見せると同時に電気ショックを与えて、まずは緑色の丸を見ると恐怖反応が起きるようにします。その後、デコーディッド・ニューロフィードバックを用いて、脳内に「緑色の丸を見たときと同じような脳活動パターン」を繰り返し誘導しました。

その結果、緑色の丸、すなわち恐怖の対象となっている物を実際に見なくても、脳内で同様の脳活動パターンを再現できれば、恐怖記憶をやわらげられる可能性が示されました。

その後、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)等の研究グループがこのアプローチを発展させ、ヘビなどの特定の動物に対して恐怖を抱く傾向のある被験者においても同様の緩和効果を得られるかどうかを検証する実験が行われました。

ヘビに恐怖を感じる人に、ヘビの写真を見せて恐怖を弱めていくのが、通常の暴露療法です。先述の実験では、被験者が緑色の丸に対して恐怖記憶を形成する前に、緑色の丸を実際に見てもらったときの脳活動を計測することで「緑色の丸を見たときと同じような脳活動パターン」を解読してニューロフィードバックに臨みました。

ただし、実験に参加するより前にすでに特定の動物に恐怖を感じる人に対して、脳活動パターンを解読する目的で動物に暴露すると恐怖をともなってしまいます。

そこで、もし恐怖の対象となる動物の写真を見せずとも、「その写真を見たときに生じる脳活動パターン」を別の手段で再現できれば、恐怖を緩和する効果が得られる可能性があります。

そこで研究グループは、多数の被験者にヘビだけでなくネコやチョウなどの様々な生き物の写真を見せて、ヘビなどの恐怖の対象となる動物を見たときに生じる一般的な脳活動パターンを特定しました。

そして、ヘビなどの特定の動物への恐怖症傾向がある人に、その動物を見たときと同じような脳活動パターンを恐怖対象の動物を見せることなく引き起こすようにしました。その結果、実際に特定の動物恐怖刺激に関連する生理反応の一部が低下したのです。

現在私たちは、将来的なPTSD患者への治療応用を目指した実験を進めています。

たとえば、男性から暴力を受けてPTSDを発症した女性は、怒った男性の顔を見ると恐怖を感じてしまいます。そこで、怒った男性の顔を見たときに生じる脳活動パターンを脳内に再現することで、恐怖反応を弱められる可能性があります。

VRで臨場感のある恐怖体験をしてもらう

ニューロフィードバックを使う方法のほかに、「VR(仮想現実)」を使って、恐怖記憶をやわらげる方法についても開発を進めています。

私たちは、人が不安や恐怖を感じたときにどのような身体の動きが生じるのかを調べるために、VRを利用してきました。

VRゴーグルを使って恐怖体験をしてもらうと、モニターで映像を見るよりも没入感・臨場感があるだけでなく、身体の動きが制限されるMRI装置内での実験や、モニター前で行う行動実験にくらべて、自然な身体運動を引き出すことができます。

私たちは、被験者に体中にマーカーを付けてもらい、モーショントラッキング技術で体の動きを追跡しました(図「VRで恐怖体験」)。

私たちが行った実験では、エレベーターに乗っているときに、あとから男性のアバター(キャラクター)が乗ってきていきなり殴りかかってくるという、恐怖を喚起するVR体験を安全性に配慮した条件で体験してもらいました。

同じ男性アバターでも殴りかかってこないパターンや、別の男性アバターが乗りこんでくるパターンなど、様々なパターンをVRで体験してもらうことで、人の体の動きから恐怖状態を推定できる可能性が示されました。

積極的な防衛行動で、効果的に恐怖をやわらげる

さらに、PTSDの治療など恐怖記憶の緩和におけるVRの可能性にも着目しています。

先程紹介したVR実験の例では、実験をつづけると、被験者は殴りかかってくる男性アバターを見るだけで恐怖反応を起こすようになります。

その後、同じ男性アバターが乗ってきても殴ってこない場面を繰り返し見せると、その男性に対する恐怖反応に変化が見られるようになります。もう同様の危険は起きないと学習して恐怖の対象に慣れるという、いわゆる暴露療法に類似した実験手法です。

VRであれば、そのような通常の暴露手法だけでなく、より積極的に恐怖を緩和することもできると考えました。映像を見るだけでなく、殴りかかってくる男性の攻撃をみずからの防衛行動で阻止できるようにしました。

このように、受動的に恐怖の対象にさらされるのではなく、みずから防衛行動をとって状況をコントロールできる体験は、従来の暴露療法とは異なるかたちで恐怖と向き合う方法となり、継続しやすさにつながる可能性があります。

被験者は、右手を前に差し出すことで、VR上で防犯スプレーを発射できるようにしました。暴力的な男性アバターがエレベーターに乗りこんできたとき、被験者は防犯スプレーを使うことで、男性が殴りかかってくる前に阻止することができるのです(図「危険をみずから阻止することで恐怖をやわらげる」)。

実験の結果、防犯スプレーで男性アバターの暴力を繰り返し阻止してもらうと、映像を見るだけの暴露を伴う実験手法よりも、男性アバターへの恐怖反応の緩和がより持続する可能性が示されました。

この実験では脳活動の計測は実施しませんでしたが、動物研究を参照すると、自身の身体を通して積極的に防衛行動を促す脳神経メカニズムが優位になることで、受動的な恐怖反応の抑制が促されるというメカニズムが背後にある可能性が考えられます。

この研究は、2023年の神経科学に関する国際学会で注目論文のひとつに選ばれて、複数のメディアでも取り上げてもらいました。

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