外務官僚のエリートたちは、開戦を指導していったのか【外務官僚たちの太平洋戦争】

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なぜ対米開戦は回避できなかったのか。外務官僚たちの終戦工作は、どうして実を結ばなかったのか――。外務省内の組織的対立や官僚たちの動向を軸に、開戦から終戦にいたる通史をたどりなおす、『外務官僚たちの太平洋戦争』

外務官僚のエリートたちは、なぜ「無謀な戦争」に突き進んでいったのか。政治が軍の暴走を止められなかったという歴史観を、外交史から検証し直します。本書より「はじめに」の一部を特別公開。

『外務官僚たちの太平洋戦争』

開戦は、外交が軍を止められなかったからなのか

 本書は、今まで表だって論じられることが少なかった外務官僚たちの動向を軸に、太平洋戦争の開戦から終戦までの通史を辿りなおすことを目的としている。

 これまで外務省の立場は、陸軍に対抗する平和国際協調の側面のみがことさら強調されてきた感がある。戦争は軍人が起こすもの(軍人の攻撃的姿勢)、外交は外交官が担うもの(外交官の抑制的姿勢)、という区分が当然のごとく思われがちであった。

 シビリアン(文民)が軍を抑えなければ、軍は暴走する。軍が政治に関与し、戦争へと国を引きずっていった。シビリアンが軍をしっかりコントロールしてさえいれば、攻撃的な戦争を自ら進んで始めることはない――。だが、こうした命題は通用しない。外交と戦争は一線を画すことはできないからである。

 「大東亜戦争」の直接的目的は、資源獲得戦争、自衛戦争とされるが、戦時中に「アジアの解放」のための戦争へとその目的を修正し、大東亜共栄圏構想を立てた。しかし開戦時に、戦争目的と講和条件の整合性を検討することはなかった。泥沼にはまってずるずると拡大していった日中戦争も、戦争状況の変化に伴い講和条件を変えるというやり方であった。そのため講和の時機を逸し、その延長線上に日米戦争があった。その戦争は、極東国際軍事裁判において、攻撃的戦争、侵略戦争と判決されることになる。

 今日では「無謀な戦争」と言われるが、当時のエリート官僚や軍人は、それほど非合理的で理解不能な決断をしたのであろうか。改めて、開戦と終戦のプロセスで外交官が果たした役割を検証することは、現代の外交の困難、本質を理解するうえでも重要であろう。

 ただしそれは、今日的価値観から過去の歴史上の人物を裁くものであってはならない。当時の外交官がどういう人物であったか、それ以上にどうありたいと望んでいたか、彼らの苦悩と苦闘の足跡を突き止めようという狙いがある。

 われわれは、戦後の極東国際軍事裁判にあわせて意図的に集められた証言、回想録、記録調書にあまりにも依拠した歴史像を、安易に受けいれてはいないだろうか。本書では、そうした反省から、外交文書、政府関係公文書はもちろん、個人の日記、回想録、オーラル資料をできる限り渉猟(しょうりょう)し、検証する。

外務官僚たちの苦闘をたどる

 本書の構成と内容について、簡単に説明しておきたい。

 日米戦争の開戦手続きにおいて、結果的に外務省は陸軍の要望する無通告開戦に協力することとなった。その経緯を辿ると、外務省内の特に条約局や南洋局の、革新派と称される少壮外交官らが企図した開戦指導が見えてくる。第一章では、革新派の少壮外交官らが省内の大勢を占める一方で、上層部の東郷茂徳(しげのり)らが日米交渉に努力するという、相矛盾する二つの外交の姿を検証する。

 決して好戦的ではなかった革新官僚は、なぜそうした行動に出たのだろうか。そこで、外務省内での位置づけを考える必要があるだろう。第一次世界大戦後、有田八郎や重光葵(まもる)らが外務省改革の必要性を叫び、それに伴って政策集団が生まれることになる。第二章では、そのグループ分けを試みるとともに、太平洋戦争へと向かう外務省の組織・機構の変遷を辿る。

 第三章では、前史としての経済戦争を検証する。外務省の主流に位置する欧米派、アジア派、あるいは満州事変以降に台頭する革新派は、ともに世界恐慌後の英米の保護貿易、第二次欧州大戦勃発後の対日通商貿易遮断を深刻にとらえていた。そこで外務省内に浮上してきたのが、資源獲得、援蔣ルート遮断を企図する陸軍の南進論に呼応する姿勢であった。

 さらに満州事変以後、白鳥敏夫の唱える皇道外交、欧州戦争を睨んだ松岡洋右による、日独伊三国同盟とソ連を加えた四国協商構想が展開される。松岡構想は結局、三国同盟と日ソ中立の結合体として成立した。しかし本来、三国同盟は日本にとって、対英対米戦争の危険をはらむものであり、日ソ中立条約は独ソ戦争後にその意義が変貌する。なぜ日本は現実的に共同作戦をとることのなかったドイツと「不信の国」ソ連と、虚像ともいえる同盟・中立関係を築こうとしたのか。第四章では、その過程を考察する。

 やがて日米関係が深刻な状態に陥り、さまざまな外交努力がなされるが、そこには二つの戦争回避のチャンスがあった。一つは近衛・ローズヴェルト会談、もう一つは日本側が最大限譲歩する「乙案」およびアメリカ側が提示しそうになった「暫定協定案」である。それはなぜ破綻してしまったのか。第五章では、野村吉三郎や来栖(くるす)三郎の動向に着目することになる。

 交渉が失敗に終わって戦争が始まると、その早期終結が新たな外交課題として浮上してくる。戦局の推移によってやがて日ソ中立条約の意義が問われ、日ソ双方が条約効力に求める狙いを変容させていくことになる。その交渉過程では、外務本省と出先の佐藤尚武駐ソ大使との間に、大きなギャップが生じていた。第六章で検証する。

 戦局がいよいよ悪化すると、東郷外相はソ連の仲介をもって、終戦へと導こうと考える。しかしソ連大使館では、ソ連はもはや連合国側に付いていると判断していた。佐藤尚武駐ソ大使、加瀬俊一在スイス公使や岡本季正(すえまさ)在スウェーデン公使らの意見電は、なぜ本省に受け入れられなかったのか。第七章では、終戦間際の情勢を見ていくこととなる。

 ジャーナリストの清沢洌(きよし)は、一九四二年に出版した著書『日本外交史』の中で「戦争は外交の破綻に始まって、外交の復活によって終局する」と述べた。本書では、まさにその「破綻」と「復活」の実相を見ていくこととなる。悲惨な犠牲を伴う戦争を決断するのも、戦争を早期に終結させる道を探るのも外交である。戦争と外交が一体であるという認識は、はたして外務官僚たちの間でどこまで共有されていたのだろうか。

続きは、『外務官僚たちの太平洋戦争』でお楽しみください。本書は、下記の構成で、外務省内の組織的対立や官僚たちの動向を軸に、開戦から終戦にいたる通史をたどります。


目次
第一章 外務省の開戦指導
第二章 外務省革新派の形成とその変容
第三章 前史としての経済戦争
第四章 日独伊三国同盟と日ソ中立の虚像
第五章 日米戦争回避の可能性
第六章 戦時下の日独ソ関係と対中政戦略
第七章 戦争終結への苦闘

著者

佐藤元英 (さとう・もとえい)
1949年、秋田県生れ。中央大学文学部卒業後、同大学院文学研究科博士課程満期退学。専門は日本近現代史、日本外交史。現在、中央大学文学部教授。外務省外交史料館編纂官、宮内庁書陵部主任研究官、駒澤大学教授などを経て現職。著書に『近代日本の外交と軍事』(吉田茂賞、吉川弘文館)、『御前会議と対外政略』(全3巻、原書房)など。
※刊行時の情報です。

■『外務官僚たちの太平洋戦争』より抜粋
■注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛している場合があります。

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