「鉄腕アトム」「ブラックジャック」など数々の名作を残した手塚治虫

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 手塚治虫氏が漫画の神様と言われるのは、日本のストーリー漫画の先駆者であったことや、生涯にわたって約15万枚もの原稿を描いた、といった数々の伝説的な功績のためだが、その中でも「絵を描くのが驚異的に速かったこと」は、今でもファンの間で語り草となっている。手塚氏は“原稿が締切ギリギリになる作家”というイメージが強いが、遅筆ではなかった。絵を描くスピード自体はとんでもなく速かったのである。

【写真】AIを使った新作「ブラックジャック」について語る手塚眞氏

 手塚氏の原稿の完成がいつも入稿ギリギリになってしまうのには、明確な理由があった。常に漫画の連載を複数本抱えていたうえ、その傍らでアニメの制作、講演会の実施など、とにかく仕事を引き受けすぎていたためである。そのうえ、最後まで完成度にこだわり、妥協しなかった。これでは、締切ギリギリになるのも当然であろう。

「鉄腕アトム」「ブラックジャック」など数々の名作を残した手塚治虫

 さらに、雑誌に載った作品を単行本にまとめる際、大幅に手直しするのも日常茶飯事だった。セリフを書き換えるのはもちろん、1ページまるごと描き直したり、雑誌掲載時とまったく異なる結末にしてしまったりした作品も存在する。これほどの仕事量では、どんなにペンを走らせるスピードが速くても、処理が追いつかないに決まっている。【文=山内貴範】

模造紙に絵を描くパフォーマンス

 生前の手塚氏が原稿を描く様子を記録したNHKの番組「手塚治虫創作の秘密」では、驚くべきスピードでペンを走らせる様子が記録されている。魔法のように絵ができあがっていき、生成AIが絵を出力するよりもはるかに速い。この映像は浦沢直樹氏が出演する番組「漫勉」をはじめ、今なお様々な機会で紹介されており、そのたびに見る者の度肝を抜いている。

 また、手塚氏が得意としたのは、ステージで絵を即興で描く、いわゆる“一発描き”のパフォーマンスであった。手塚氏はファンサービスに熱心だったことで知られ、仕事の合間を縫ってはファンが集まるイベントに出演していた。そして、ステージに設置された模造紙にアトムやレオの絵を描いて、じゃんけんで勝った来場者にプレゼントしていたのである。

 模造紙を使ったパフォーマンスは、亡くなる直前にも実施されていた。亡くなる数か月前、大阪の中学校で行われた講演を記録した映像には、闘病中の手塚氏が、やせ細った体で勢いよく絵を描く様子が映されている。そのペンタッチは流れるような美しさで、闘病中であることをまったく感じさせない見事なものであった。

サイン会では“神対応”を連発

 現在は解散してしまった「手塚治虫ファンクラブ」の会誌「手塚ファンmagazine」114号には、「手塚先生のサインと思い出」という特集があり、手塚氏のサイン会にまつわる多彩なエピソードが紹介されている。没後それほど経っていない時期に刊行された会誌ということもあり、記憶が鮮明なファンが多く、貴重な資料になっている。掲載された証言のほかに、筆者が過去に取材で得たエピソードなどを交えつつ、手塚氏のサイン会の様子を振り返ってみたい。

 昨今の漫画家のサイン会では、運営側が用意したイラストが印刷された色紙に、漫画家が文字(名前)だけのサインを入れるのが一般的である。もちろん、ファンならどんなかたちであれサインがもらえたら嬉しいし、憧れの漫画家に会えて握手できただけでも幸せだろう。ところが、手塚氏はこうしたサイン会で、とんでもない“神対応”を連発していたのだ。

 手塚氏は、サインだけでなく、丁寧なイラストを添えるのがいつものことだった。しかも、生み出したキャラは膨大な量だが、手塚氏はそのほとんどを暗記しており、「〇〇を描いてほしい」というリクエストがあればその場ですぐ応じることができた。しかも、資料は一切見ずに、だ。「アトム」をリクエストしたそれぞれのファンに、違う構図の絵を描いて渡していたという話もある。

複雑な構図も下描きなしで描ける

 手塚氏がとんでもないのは、下描きをしないと描けないような複雑な構図も、サイン会という場で、一発描きでサラサラと描いてしまうことであった。キャラが足を組んだり、空を飛んでいる構図などは朝飯前。「アトムが空を飛んで戦っている絵」などの細かい指定も余裕でこなし、まるで漫画の一コマのような構図であっても、下描きなしで描くことができたようである。

 前出の会誌には、「リボンの騎士(サファイア)をリクエストしたら、おまけでユニコも描いてくれた」というエピソードや、「単行本のこのシーンの絵を描いてほしい」などの無茶振りのリクエストにも、嫌な顔一つせずに笑顔でなんなくこなしていたという、驚きの逸話が載っている。

 極めつきは、あるファンが『どろろ』の百鬼丸をリクエストしたときのエピソードだ。ファンに対し、手塚氏は「漫画とアニメの百鬼丸のどちらを描いてほしいか」と聞いてきたのだという。そう、漫画とアニメでは、微妙にキャラクターデザインが違うのである。手塚氏はそんな細かいことを自分から申し出るほどファン思いだったし、驚異的な記憶力を持っていたことがわかる。

一発描きの技術は伝統芸能の域に

 手塚氏は漫画史上トップレベルにサービス精神が旺盛な漫画家であったが、総じて昔の漫画家は、ファンに対して気軽にサインに応じていたなどのエピソードが多い。筆者は、当時の漫画家が置かれていた状況も、影響していたとみる。今では考えられないことだが、かつて漫画は悪書の象徴であり、漫画家の地位も高くなかった。そんななか、手塚氏は人前に積極的に出て、漫画家の地位向上に努めようとした。

 そのためには漫画家という仕事を世間に知ってもらうこと、そして一人でも多くのファンを生み出し、支持を広げていく必要があった。こうした漫画と漫画家という職業にかける情熱が、手塚氏の唯一無二のパフォーマンスと神対応に結実したと言っていいのではないだろうか。

 さて、YouTuberでイラストレーターのさいとうなおき氏が、「アナログ一発描きのやり方」を動画にしていた。手塚氏のような、即興で絵を描く方法を解説したものである。いくらでもやり直しが利くデジタルに慣れた若い世代にとって、一発描きは憧れであり、特殊技能として映るようだ。

 現在、商業の場で活躍している漫画家の9割以上が、デジタルで作画しているといわれる。アナログで漫画を描く技術は、もはや“伝統芸能”と言ってもいいような状況になっており、一種の職人技になった。一方で、デジタルの進化や、生成AIの普及とともに、アナログの技術が見直されつつある。手塚氏の一発描きのテクニックは、今こそ再注目されるべきであろう。

ライター・山内貴範

デイリー新潮編集部